後醍醐天皇は、鎌倉幕府の末期に「天皇が政治の中心へ戻る」道を探った人物だ。両統迭立で皇位が揺れるなか、幕府の干渉を押し返し、朝廷の主導権を取り戻す親政の実現を目指した。
その過程で討幕計画が露見し、正中の変や元弘の変へつながる。挙兵の失敗で隠岐へ流されても、出家を拒み、元号の扱いにも強い意志を示したと伝わる。各地の武士や寺社勢力の動きを取り込み、再起の機会をうかがった。
1333年に幕府が滅ぶと、建武の新政が始まり、綸旨による所領安堵や新しい統治の仕組みが動き出す。理想は古代的な君主権の回復だったが、現実には恩賞や訴訟の処理が追いつかず、不満が広がった。
やがて協力者だった足利尊氏と決裂し、京都の北朝と吉野の南朝が並び立つ。南北朝の争いは政治の形を変え、武家政権の土台にもつながっていく。後醍醐天皇は吉野で政権の再興を望みつつ1339年に没し、その後も対立は長く続いた。
後醍醐天皇は何した:討幕へ進んだ理由と過程
即位期の状況と親政への意志
後醍醐天皇は1288年に生まれ、1318年に即位してから1339年まで在位したとされる。天皇の位が武家政権の意向に左右される状況を、根本から変えようとした。
当時は持明院統と大覚寺統が交互に即位する両統迭立が続き、皇位の正統をめぐる緊張が高かった。幕府の調停が入るほど、朝廷内部だけで決着しにくい構図だった。
後醍醐天皇は大覚寺統から即位し、天皇の君主権を強める方向へ舵を切る。摂関家や院政の仕組みを超えて、天皇自らが裁可する政治を理想に据えた。
この理想は、朝廷の儀礼や官職の世界だけでなく、土地支配と武士の忠誠の仕組みまで動かす話になる。だからこそ幕府との衝突は避けがたく、早い段階から討幕へ向かう力が生まれた。
「朕の新儀は未来の先例」といった言葉が伝わるように、前例よりも新しい秩序を優先する姿勢が目立つ。強い意志は魅力である一方、反発も招く土台になった。
正中の変と討幕計画の露見
討幕の動きが初めて大きく表面化するのが1324年の正中の変である。近臣らが集まって計画を練ったとも記されるが、事前に察知され、側近が処罰されるなどして失敗に終わったとされる。
この時点では、幕府が朝廷を監視する拠点も機能しており、秘密の動きは漏れやすかった。とはいえ後醍醐天皇は方針を変えず、長い時間をかけて支持を広げようとする。
重要なのは、討幕が単なる一回の反乱ではなく、政治構想とセットで動いた点だ。天皇の権威を回復し、武家政権の根を断つことが目的になる。
そこで朝廷内の貴族だけでなく、僧侶や武士、時に在地の勢力にも目を向けた。関所の停止など、商工の動きに関わる命令が語られるのもこの流れに重なる。
失敗の経験は、次の元弘の変でより大きな決起を呼ぶ準備にもなった。幕府側の警戒が強まるほど、衝突は避けられない局面へ近づいていった。
元弘の変と隠岐配流
1331年、討幕の動きは再び露見し、後醍醐天皇は笠置山で挙兵したが鎮圧される。捕らえられたのち、隠岐へ配流されたのが元弘の変の大きな山場である。
配流後も、後醍醐天皇は出家を拒み、討幕の意思を失わなかったと伝わる。武家政権に従う姿を見せなかった点が、支持者の結束を保つ材料にもなった。
一方で都では護良親王や楠木正成らが動き、討幕の火は消えなかった。中央の貴族だけでは届かない場所で、在地の武士が自分の利害と結びつけて動き始める。
1333年に隠岐を脱出すると、山陰の船上山などを拠点に挙兵を呼びかけたとされる。こうして各地の反幕府勢力が連鎖し、情勢が一気に崩れていく。
この段階で後醍醐天皇の「討幕」は、単独の挑戦ではなく全国規模の内乱へ姿を変えた。のちの鎌倉幕府滅亡と建武の新政は、この流れの延長線上にある。
1333年の転回と幕府滅亡
討幕の機運が高まると、足利尊氏や新田義貞らも動き、1333年に鎌倉幕府は滅亡する。後醍醐天皇は帰京し、政治の主導権を朝廷へ取り戻した。
このとき後醍醐天皇は、幕府や摂関の仕組みを退け、天皇が自ら裁可する体制を目立つ形で進めた。武家と公家を一つの政権に束ねる発想も見える。
ただ、討幕に参加した勢力は目的も立場も異なる。武士は恩賞と所領の安堵を求め、寺社は旧来の権益を守り、貴族は官職と秩序の維持を重んじる。
後醍醐天皇が新しい政権を作るには、これらを調整しつつ、迅速に判断を示す必要があった。そこで綸旨の発給や訴訟の裁断が集中し、都の往来が激しくなったとされる。
こうした熱量の高さが、建武の新政の出発点である。成功も失速も、討幕の成果をどう配分するかという難題と結びつき、期待が大きいほど失望も大きくなりやすい。
後醍醐天皇は何した:建武の新政で起きたこと
天皇親政を動かす体制づくり
建武の新政は、討幕の直後に始まった天皇親政の試みである。後醍醐天皇は院政の停止や記録所の再興などを通じ、裁可を天皇の手元へ集める方向を強めた。
政権の中枢には記録所が置かれ、政務や訴訟を扱う場が整えられる。さらに恩賞の配分や軍事を担う機関も整備され、公家と武家を同じ枠組みで動かそうとした。
ただ、権力を一気に集めるほど、決裁を待つ案件が雪だるま式に増える。各地から上がる訴えに目を通すだけでも時間がかかり、停滞は不満に直結する。
そのため後醍醐天皇は前例よりも「新しい秩序」を優先し、必要なら規則を組み替える姿勢を見せた。柔軟さはあるが、方針が変わりやすいと受け止められる危うさも生む。
建武の新政の本質は、古代への回帰というより、武家政権が前提になった社会で天皇中心の統治を作り直す挑戦である。時間も制度も足りないなか、その難しさが短期間での摩擦として噴き出した。
綸旨と所領安堵・恩賞のしくみ
討幕に加わった武士が最も気にしたのは、所領が守られるか、功績に見合う恩賞があるかという点だ。建武政権はその確認を、天皇の綸旨で行う方針を強く打ち出した。
綸旨は天皇の命令であり、所領の安堵に直結する。綸旨がなければ法的に安心できないと受け止められると、諸国から願い出が殺到し、処理能力を超える状況になる。
後醍醐天皇は綸旨によらない安堵を認めない方向へ踏み込んだとされる。前からの慣習を揺さぶる強い姿勢は、権威を示す一方で、在地の武士の反発も招いた。
やがて適用を限定したり、別の方式へ切り替えたりする動きが見える。方針変更は現実対応でもあるが、期待と結果の差が大きいと「朝令暮改」と映りやすい。
恩賞は土地だけではないが、土地が絡むと争いになりやすい。綸旨を軸にした統治は、天皇中心の国家を作る鍵であると同時に、建武の新政の弱点にもなった。
訴訟の集中と雑訴決断所
土地の争いが増えると、裁く仕組みが必要になる。建武政権では雑訴決断所が置かれ、所領関係など一般の訴訟を扱う場になったとされる。
大きな案件を記録所が扱い、雑訴決断所が日常的な訴えをさばくという役割分担が語られる。理屈の上では、中央で統一的に判断できる体制である。
ところが、戦乱の後には境界の争い、押領の訴え、二重の給付の疑いなどが一気に噴き出す。荘園文書の確認や古い契約の照合も必要になり、人員を増やしても追いつかず、判決を待つ側の不満は積み重なる。
当時の風刺や記録には、決断所の運営に手際の悪さがあったと見る材料もある。能力の吟味が十分でないまま人が集められた、といった批判が伝わる。
裁判が滞ると、恩賞も所領も不安定になる。建武の新政が短命に終わった背景には、理念だけでなく、日々の行政処理を回す難しさがあった。
二条河原の落書が映す世の空気
建武の新政の空気を伝える材料として知られるのが、二条河原の落書である。匿名の文書で、権力者への批判や社会風潮への風刺を含む落書の一例とされる。
落書が生まれる背景には、戦乱の爪痕が残る都の混乱がある。治安の悪化や物価の不安、規範の揺らぎが語られ、政治がそれに追いついていないという感覚が滲む。
こうした声は、武士だけでなく庶民や下層の人々の視点を映す点で重い。政権の正しさだけを語ると見落としがちな、生活の実感が表に出るからだ。
後醍醐天皇の改革は、決裁を都へ集め、前例を組み替えてでも秩序を作る志に支えられていた。だが変化の速さは、現場の暮らしにとって不安の増幅にもなり得る。
二条河原の落書は、建武の新政の失速を一枚で説明する証拠ではない。それでも、期待と現実のずれが早くから意識されていたことを示す手がかりになる。
後醍醐天皇は何した:崩壊と南北朝への影響
足利尊氏との決裂が決定打になる
建武政権を揺らした大きな要因が、足利尊氏との対立である。討幕の功労者である尊氏は、武士の不満を背にして独自に動き、朝廷の統制から外れていく。
1335年には北条氏の遺児を担ぐ中先代の乱が起こり、関東が混乱する。尊氏は鎌倉で鎮圧にあたったが、帰京せず、やがて新田義貞の討伐を掲げて反建武政権の立場を鮮明にした。
こうして「討幕の同盟」は崩れ、京中でも戦いが続く。武士の側には恩賞や土地処理への不満があり、朝廷側には天皇親政を守る意地がある。衝突は理念だけでは止めにくかった。
建武の新政は、天皇中心の統治を実現しようとした分だけ、武士の軍事力への依存も大きかった。協力者が離反すると、制度を動かす土台が一気に揺らぐ。
尊氏との決裂は、建武の新政の終わりを告げるだけでなく、武家政権が新しい形で再編される出発点にもなった。後醍醐天皇の選択は、その後の時代を長く規定した。
吉野潜行と南朝の成立
尊氏が京都の主導権を握ると、後醍醐天皇は都を離れ、吉野へ潜行して南朝を立てた。これが南北朝分裂の出発点である。
吉野は山に囲まれ、都から距離がある一方、信仰や修験の拠点も近い。南朝の御所は移り変わったとされ、痕跡は現在も各地に伝わる。
北朝は京都を拠点にし、武家政権と結びつきやすい位置にあった。政権運営では国司と守護の併置などが語られ、武士の軍事力が治安維持の要になる。南朝は「正統」を掲げ、後醍醐天皇の意志を軸に抵抗を続ける構図になる。
神器の扱いをめぐっては複雑な経緯が語られ、どちらが正統かは後世まで論点となる。大切なのは、二つの朝廷が並び立つ状態が長期化し、政治の基準が揺れたことだ。
後醍醐天皇は吉野で政権の回復を狙ったが、味方の有力武将が相次いで倒れるなどして勢力は弱まっていく。1339年の崩御まで続いた抵抗が、南朝の精神的な核になった。
南北朝の長期化と武家政権の再編
南北朝の争いは、天皇の正統性と武家の実力がねじれた状態を長く固定した。どちらの朝廷も「正しさ」を掲げたが、現場では軍事力と所領支配が決め手になりやすい。
この時期に、武家側は統治の方針を文章化し、幕府の枠組みを整える。建武式目は尊氏側が政道の参考にするために諮問し、答申を基にまとめられたとされる。
つまり、後醍醐天皇の親政の試みは、武家政権が自らの統治を言語化する契機にもなった。天皇中心の政治を打ち出したことで、武家側も制度を固めざるを得なくなる。
一方で朝廷側も、武家とどう折り合うかを考え直す。南北朝の経験は、以後の朝廷と幕府の関係が「対立と協調」を繰り返す下地になった。
後醍醐天皇が何したかを問うとき、倒幕と建武の新政だけで終わらない。南北朝という長い争いの起点を作り、政治の重心を動かした点まで含めて捉える必要がある。
後世の評価が割れる理由
後醍醐天皇の評価が割れるのは、目的の大きさと結果の厳しさが同居するからだ。幕府を倒し、天皇親政を実際に動かした行動力は大きな転機を作った。
一方で、恩賞の不公平や政策の揺れが政権の自壊を招いたという見方も強い。方針転換が多いと、現場は「何を信じて動けばよいか」を失いやすい。
また、天皇の決裁を中心に据えるほど、書類と訴えが都へ集中する。制度の設計だけでなく、運用する人と時間が足りないと、停滞は避けにくい。
それでも後醍醐天皇は、儀礼の整備や年中行事の編纂、和歌など文化面でも足跡を残したとされる。政治だけで測れない人物像が、支持を集める理由にもなる。
結局のところ、後醍醐天皇は「できるはずだ」という意志で時代を動かした君主である。成功と失敗の両面を押さえると、南北朝の混乱が単なる内輪もめではなく、社会全体の再編だったと見えてくる。
まとめ
- 後醍醐天皇は天皇親政の実現を掲げ、幕府の干渉を押し返そうとした。
- 1324年の正中の変、1331年の元弘の変を経て討幕の動きが拡大した。
- 隠岐への配流後も意思を曲げず、1333年に脱出して各地の挙兵を促した。
- 足利尊氏や新田義貞らの動きが重なり、1333年に鎌倉幕府は滅亡した。
- 建武の新政では記録所などを整え、天皇の裁可を中心に据えた。
- 綸旨による所領安堵を強めたことで願い出が集中し、処理が追いつきにくくなった。
- 雑訴決断所など訴訟機関の整備は進んだが、滞りが不満を増幅させた。
- 都の混乱や失望は二条河原の落書のような風刺にも映し出された。
- 尊氏との決裂で建武の新政は崩れ、後醍醐天皇は吉野で南朝を立てた。
- 南北朝分裂は政治の重心を動かし、以後の朝廷と武家の関係に影響した。



