1970年11月25日、作家・三島由紀夫は東京・市ヶ谷の自衛隊施設で「決起」を呼びかける演説を行い、その直後に切腹して命を絶った。いわゆる「三島事件」だ。文学史の出来事であると同時に、戦後日本の政治と社会、そして「言葉と行動」をめぐる問いを一気に噴き出させた事件でもある。
この出来事を理解しようとすると、どうしても「衝撃的な最期」ばかりが先に立つ。だが本当に知るべきなのは、当日、市ヶ谷で何がどの順番で起きたのか、そしてなぜ三島が「切腹」という形式を選んだのかという二点だ。
結論から言うと、三島事件は「楯の会」という集団とともに、軍の中枢を象徴する場所で、戦後憲法と自衛隊のあり方を争点化し、最後を自らの身体で閉じた“政治と表現の合体”として設計された出来事だった。切腹は、単なる自死の手段ではなく、三島が考える「責任」「美」「国家」を一つに束ねる、きわめて象徴性の強い形式として置かれていた。
- 1970年11月25日に市ヶ谷で起きた出来事の全体像
- 「三島事件」と呼ばれる理由と、楯の会の位置づけ
- 当日の流れを、過不足なく時系列で整理した内容
- 檄文の意味と、よく語られる主張の骨格
- なぜ切腹という形式だったのかを、諸説を分けて理解する視点
三島由紀夫の切腹とは
三島由紀夫の切腹は、1970年11月25日に起きた「三島事件」の最終局面にあたる。事件の舞台は、東京・市ヶ谷の陸上自衛隊関連施設で、三島は複数の同行者とともに幹部の執務室を占拠し、隊員に向けて演説を行ったあと、室内で切腹したとされる。
事件はしばしば「クーデター未遂」といった言葉で語られるが、実態としては、武装した少人数が要所を制圧し、隊員の“決起”を促すことで政治状況を動かそうとした試みだった、という理解が出発点になる。
1970年11月25日、市ヶ谷で起きたこと
三島は当日、楯の会のメンバー数名とともに市ヶ谷に入り、東部方面総監の執務室を占拠し、幹部を拘束したうえで、集まった自衛官に向けてバルコニーから演説した。演説は短時間で終わり、その後、室内で三島と森田必勝が切腹し、同行していた別のメンバーが介錯に関与したとされる。
この「占拠→演説→切腹」という流れが、事件を一つの“筋”として強く印象づけた。つまり、場の選び方、言葉の投げ方、終わり方までが、連続した一つの出来事として固定されている。
「三島事件」と呼ばれる理由
「三島事件」という呼び名が定着したのは、起点が文学者の死にあるからだけではない。自衛隊幹部の拘束(監禁)、負傷者の発生、演説による扇動、そして切腹という結末まで含む一連の行為が、社会的事件として扱われたためだ。
また、三島が率いた楯の会が関与したことも大きい。楯の会は三島が組織した集団で、皇室を象徴とする日本文化の防衛や武の精神の保持を掲げ、学生を中心に一定規模の構成員を抱えていたとされる。
事件が「単独の自死」ではなく、「集団を伴う政治行動」として記録されるのは、この点に由来する。
「切腹/割腹」どちらの語が使われるか
この出来事では「切腹」と「割腹」の両方が使われる。一般に「切腹」は儀礼的な語感が強く、歴史用語としての定着もある。一方「割腹」は、行為の描写として直接的で、出来事の報道や記録で用いられることがある。
ただし、どちらの語を使っても「武士の作法としての自死」を指す点は同じだ。重要なのは語の違いよりも、三島が「通常の自殺」とは異なる形式を、あえて選び取ったという事実だ。
三島由紀夫の切腹当日の時系列
ここでは必要以上に生々しい描写を避け、確認されている流れを、理解しやすい順番で整理する。
市ヶ谷到着〜総監室占拠まで
当日午前、三島は楯の会のメンバー4名とともに市ヶ谷の施設に到着したとされる。面会の体裁で建物内に入り、東部方面総監の執務室へ通され、そこで拘束が行われた。
占拠の過程で抵抗した関係者が負傷し、室外との連絡が遮断されるなど、現場は緊張状態に入った。少人数であっても、場所が場所だけに、周囲の動きは一気に大きくなる。
この段階で、三島側の狙いは「隊員を集めること」にあったと考えられる。演説を成立させるには、聞き手が必要だからだ。
バルコニー演説と檄文配布
やがて自衛官が集合し、三島はバルコニーから短時間の演説を行った。概要としては、戦後憲法の枠組み、とりわけ武力や国家のあり方に関わる部分への不満を述べ、自衛官に向けて「決起」を促す内容だったと整理される。
このとき「檄文」と呼ばれる文書が配布・撒布されたとされ、後に新聞や全集などで全文が掲載・収録されることになる。
演説自体は、現場の反応もあって長くは続かなかったとされる。だが、演説の長短よりも、「軍の象徴空間で、軍人に向けて、憲法と国家の転換を訴えた」という構図が、その後も強い意味を持ち続けた。
結末まで
演説ののち、三島は執務室へ戻り、切腹によって命を絶った。同行していた森田必勝も同様に命を落としたとされる。介錯には古賀浩靖が関与したとされ、残るメンバーは事件後に逮捕・起訴され、裁判に至った。
この「行動の終わり方」こそが、三島事件を単なる政治的抗議や、突発的事件としてではなく、強い象徴性を帯びた出来事として残した要因になっている。
三島由紀夫の切腹|檄文とは何か
檄文は、事件の理解においてしばしば「全文」に注目が集まる。しかし、全文の丸暗記より大切なのは、檄文が何のために置かれ、どんな骨格で主張が組まれているかだ。
檄文の位置づけ
檄文は、三島が自決に際して用意した“最後の声明文”として扱われる。実際、当日の現場で撒布された文書として流通し、その後、新聞や全集などに収録されていく。
ここで押さえたいのは、檄文と演説原稿が必ずしも同一ではない、という点だ。新聞に載った檄文は「ビラとして撒布したもの」とされ、「演説の原稿とは異なる」と整理されることがある。
つまり、檄文は「当日の言葉」をそのまま写した録音記録ではなく、「当日の主張を代表させるために準備された文章」と見たほうが理解しやすい。
主張の骨格
檄文で中心に置かれる主張は、概ね次のように要約できる。
- 自衛隊の存在意義と誇りが、戦後体制の中で歪められているという認識
- 憲法の枠組みを改め、国家としての“本来の姿”を取り戻すべきだという訴え
- 皇室を「日本文化の象徴」として位置づけ、その尊厳を守るという価値判断
- 自衛官に対して、現状を転換する行動へ踏み出すよう促す呼びかけ
この骨格は、政治的スローガンとして理解できる一方で、三島特有の言葉遣いと「美学」の混ざり方があるため、受け取り方が割れやすい。
全文掲載をめぐる経緯
檄文は当時の新聞にも掲載されている。また、檄文は三島作品の全集にも収録され、初出情報や収録箇所が整理されている。
このため現在は、「当日の主張を知りたい」という需要に対して、檄文が最も参照されやすい“入り口”になっている。ただし先述の通り、檄文と演説が完全に同じとは限らない点は、理解の前提として持っておきたい。
三島由紀夫はなぜ切腹を選んだのか
この問いは、政治の話としてだけ追うと、説明が足りなくなる。三島の切腹は、政治的主張の強さだけでなく、「形式」そのものが意味を担うよう設計されているからだ。
政治的主張だけでは説明しきれない点
三島は演説で憲法の転換を訴えたが、実際に政治過程を動かす現実的な手段や、継続可能な組織計画があったのかという点では議論が残る。だからこそ評価が割れ、「政治的行動」なのか「表現」なのか、あるいはその両方なのかが問題になる。
切腹がこの議論を加速させる。もし結末が逮捕で終わっていたなら、事件は「過激な政治運動」として収束した可能性が高い。だが切腹という形式が入ることで、出来事は“表現としての完成”を帯び、政治の成否とは別の軸で語られるようになった。
作品と美学
三島は事件当日に『豊饒の海』最終巻の原稿を出版社に届けたうえで、市ヶ谷へ向かったとされる。
この事実は、三島事件が「人生と作品の結び目」として語られる理由の一つになる。つまり、長い創作の終点と、行動の終点が同じ日に置かれているためだ。
この読み方に立つと、切腹は「死そのもの」以上に、「作者が自分の物語をどう閉じたか」という問題になる。もちろん、それを肯定する必要はない。ただ、切腹が“政治の結果”ではなく、“美学の形式”として理解される入口は、ここにある。
身体・行動・表現の一体化
楯の会の存在も、この理解を補強する。楯の会は三島が組織し、学生を中心に武の精神や皇室の象徴性を掲げた集団として位置づけられる。
言葉だけで国家を語るのではなく、身体を鍛え、組織を作り、軍事空間へ入り込み、最後は身体で結末を引き受ける。こうした「言葉と身体の結合」を、三島自身が望んでいたと読む立場がある。
この観点から見ると、切腹は衝動の産物というより、「自分の主張を、最も象徴的に確定させる形式」として置かれた可能性が高い。
三島由紀夫の切腹の同行者・介錯・法的な論点
事件を“三島ひとり”の出来事として理解すると、現実の輪郭がぼやける。実際には複数の同行者がいて、拘束・演説・結末までに役割が分かれている。
森田必勝・古賀浩靖など関係人物の役割
当日の実行メンバーとして一般に挙げられるのは、三島由紀夫、森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の5名だと整理される。
森田は三島とともに命を落とし、古賀は介錯に関与したとされる。小賀と小川は拘束など現場行為に関与したのち、生存して逮捕・起訴された側に入る。
ここで大切なのは、事件が「一人の最期」ではなく、「複数人の協同行為」として法的にも扱われた点だ。
自殺幇助など、事件後に語られた法的論点
事件後、生存したメンバーは複数の罪で起訴され、裁判が行われた。
法的に論点になりやすいのは、(1)幹部拘束に関わる犯罪類型、(2)負傷者が出たことの評価、(3)切腹の場面に第三者が関与したことの扱い、の三つだ。
特に(3)は、介錯が「頼まれて手を下す」構造を持つため、一般的な感覚では理解が難しい。だが裁判では、当時の法体系の中で、具体的な構成要件に当てはめて判断されている。ここは断片的な情報だけで決めつけず、「事件後に司法がどう整理したか」を確認するのが安全だ。
三島由紀夫の切腹現場は今どうなっている?
三島事件の現場そのものは、防衛省の市ヶ谷地区に含まれる。現在、このエリアは見学ツアー(市ヶ谷台ツアー)として案内されており、一定の条件を満たせば参加できる。
事件を“現場”として捉え直すと、抽象化された議論から一度距離を取り、場所が持つ重さを確認できる。もちろん、見学は観光ではなく、警備上の制約が強い点に注意が必要だ。
防衛省「市ヶ谷地区見学(市ヶ谷台ツアー)」の概要
市ヶ谷台ツアーは、市ヶ谷記念館などを含むコースが設定されている。
予約方法の案内では、午前・午後でコースが異なり、午後は地下壕を含むことがあるなど、コース内容がQ&A形式で整理されている。
予約の要点
予約は、見学希望日の2か月前から受け付けると案内されることが多い。見学日の直前には締切が設定され、名簿提出が必要になる。受付の手続きが間に合わないと参加できない。
当日は本人確認があり、写真付きの公的身分証の提示が求められる。また、受付時間に遅れると参加できず、途中参加や途中退出もできない。手荷物検査が実施され、危険物がある場合は参加できない。
さらに、ツアーは屋外を徒歩で移動する区間があり、歩きやすい服装が推奨される。食事は取れない旨も案内されることがある。
市ヶ谷記念館に関する読み物
市ヶ谷記念館の位置づけや展示の方向性は、公式案内からも概略がつかめる。事件だけに焦点を当てると視野が狭くなるため、「市ヶ谷という場所の軍事史」「戦後の自衛隊史」という広い文脈と合わせて読むと、現場理解が立体的になる。
三島由紀夫の切腹に関するよくある質問(FAQ)
「三島事件」と「切腹」の関係は?
三島事件は、幹部拘束と演説を含む一連の行為全体を指し、その結末として三島と森田が切腹した、という関係にある。切腹は事件の一部であり、同時に事件の意味を決定づけた要素でもある。
檄文とは何?どこで読める?
檄文は当日に撒布された声明文で、新聞掲載や全集収録が知られている。読み比べの際は、檄文と演説原稿が同一ではない場合がある点を前提にすると混乱が減る。
なぜ“切腹”という形式なのか?
大きくは三つに分けて語られることが多い。第一に、戦後憲法や自衛隊のあり方への抗議を、武の形式で完結させるという政治的象徴。第二に、作品の終点と人生の終点を重ねるという美学的読み。第三に、言葉と身体を一致させるという思想的読みだ。
どれか一つで決着するというより、複数の要因が重なった結果として理解するほうが、現実に近い。
市ヶ谷は見学できる?
条件を満たせば、市ヶ谷台ツアーとして参加できる。予約の締切、本人確認、手荷物検査、途中参加不可など、警備上の制約があるため、公式案内に沿って準備する必要がある。
まとめ
- 1970年11月25日、三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊施設で演説を行い、その後に切腹して命を絶った出来事が「三島事件」だ。
- 事件は「作家の死」だけでなく、幹部拘束、演説、檄文の配布、切腹という一連の行動として社会的事件になった。
- 三島は楯の会のメンバーと行動し、単独行為ではなく少人数の協同行為として実行された点が重要だ。
- 当日の大きな流れは「市ヶ谷到着→総監室の占拠→バルコニー演説→室内での切腹」という順序で整理できる。
- 演説は戦後の国家のあり方や憲法観に関わる主張を軸に、自衛官へ行動を促す意図を持っていた。
- 檄文は当日に撒布された声明文で、事件の主張を理解するための中心資料として扱われる。
- 檄文の骨格は「自衛隊の矛盾への問題提起」「体制の転換要求」「皇室の象徴性の強調」「行動の呼びかけ」などに要約できる。
- 切腹が選ばれた理由は一つに定まらず、政治的象徴、美学としての完結、言葉と身体を一致させる思想など複数の見方がある。
- 同行者や介錯、事件後の逮捕・裁判など周辺要素を押さえると、出来事の現実的な輪郭がはっきりする。
- 現場の市ヶ谷は現在見学制度があり、場所の歴史と合わせて捉えると事件理解が立体的になる。




