結論:「新宝島」は戦後ストーリー漫画の原点とされる、200ページ超の描き下ろし
「新宝島」は、1947年1月に育英出版から出た赤本マンガで、手塚治虫が作画、酒井七馬が原案・構成を担当した描き下ろし単行本です。当時の少年雑誌の漫画が4ページほどだったのに対し、200ページを超える分量があり、異例のベストセラーになって大阪に赤本ブームを起こしたとされます。
この作品が語り継がれる理由は、台詞の説明に頼らず、アクションやコマ割り、構図で時間や状況を進めた点にあります。読んだ子どもたちが「絵が動いている」と衝撃を受けたと伝わり、藤子不二雄や石ノ森章太郎らが影響を語っています。
一方で、映画的な表現の功績が誰のものかについては、手塚の工夫とする見方と、元アニメーターの酒井の功績とする見方があり、議論が続いています。手塚自身が長く復刻を拒んだことも、この作品を「幻」にしました。
基本情報
- 作品名:新宝島(初版の表記は「新寶島」)
- 刊行:1947年(昭和22年)1月30日発行の初版。出版社は育英出版
- 作者:手塚治虫(作画)・酒井七馬(原案・構成)
- 手塚治虫:1928年(昭和3年)11月3日生まれ、1989年(昭和64年)2月9日没、60歳。当時は大阪帝国大学附属の医学専門部の在学中
- 酒井七馬:1905年(明治38年)4月26日生まれ、1969年(昭和44年)1月23日没、63歳。戦前からの漫画家で、元アニメーター
- 形態:赤本マンガ(安価な描き下ろし単行本)。分量は200ページを超える
- 発行部数:正確な数は不明。4万部という推測、40万部という証言、80万部とする説がある
- 主な版:1947年の初版と改訂版、1986年の手塚治虫漫画全集版(講談社)、2009年の復刻版(小学館クリエイティブ)
手塚治虫「新宝島」の誕生:酒井七馬との共作と赤本ブーム
吹田の漫画書院から始まった共作
共作のきっかけは、手塚が大阪府吹田市の漫画書院を訪れたことでした。そこで編集者の大坂ときをから酒井七馬を紹介され、酒井から育英出版での単行本づくりを持ちかけられたとされています。1946年に4コマ漫画「マアチャンの日記帳」でデビューしたばかりの手塚にとって、本格的な長編を世に出す機会でした。
酒井は1920年ごろから漫画を描き始め、1935年には日活京都漫画部でアニメーターとして働いた経歴を持ちます。戦後は1946年に関西マンガマンクラブを結成しており、手塚もその会員でした。手塚が20歳に届かない医学生、酒井が40代の経験豊富な漫画家という組み合わせです。
役割分担をめぐる二つの話
手塚治虫の項目には、酒井が大まかな構成を作り、手塚が自由に描いたという記述があります。ところが手塚は1986年版のあとがきで、酒井が原案と構成を担当したとされているものの、構成の草案は自分が書いたと記しました。分担の実態は、当事者の記述にも食い違いがあります。
原稿の扱いも分かっています。手塚の原稿の権利は、出版社が3,000円で買い取る契約でした。原稿は出版社に売り渡す形の契約だったことが分かります。
赤本と呼ばれた本の位置づけ
赤本とは、安価に売られた描き下ろしの漫画本のことです。「新宝島」はその赤本の一冊として出ましたが、売れ行きは群を抜き、大阪で赤本ブームを引き起こしたと伝わります。発行部数は4万部、40万部、80万部と見方が大きく割れており、数字を一つに決めることはできません。確かなのは、数字の幅が示すほど「正確な記録が残っていない」ということです。
映画的と言われる演出の秘密:コマ割りと構図で進める物語
物語の出だし
物語は、亡くなった父親の書類箱から宝の地図を見つけたピート少年が、知り合いの船長と島へ向かおうとする場面から始まります。スティーヴンソンの『宝島』をベースに、ターザンやロビンソン・クルーソーを混ぜたような物語とされますが、『宝島』そのものの漫画化ではない、という注意書きがウィキペディアにあります。
なお、冒頭の自動車の場面が有名だと語られることがありますが、今回確かめた資料には場面の描写がなく、ここでは内容に踏み込みません。
「絵が動いている」と言われた理由
当時の漫画少年は、この本を読んで「絵が動いている」と衝撃を受けたとされ、手塚の映画的表現として長く語られてきました。野口文雄は、それまで台詞による説明に頼っていた時間や状況の進行を、アクションやコマ割り、構図で行った点が革新的だと説明しています。竹内オサムは、映画的手法のうち「同一化技法」に革新性があると論じています。
要するに、「何が起きているか」を登場人物が口で言うのではなく、動きの連続として読者に見せる作りだ、ということです。短い漫画しか載らない雑誌に慣れた子どもにとって、200ページ超の一冊が一本の映画のように読めたことは、大きな体験だったはずです。
功績は誰のものか
この映画的表現を誰の功績とみるかには、異論があります。中野晴行は、功績は元アニメーターの酒井にあるとの考えを示しています。これに対し野口文雄は、手塚が制作時の日記を残さなかったとされる点について、日記は初めから書かれていなかったという森晴路の証言を挙げ、中野の説に反論しています。酒井の評伝の著者も、元アニメーターだった酒井の貢献は大きかったと推測しています。
私は、どちらか一方に決める材料は、現在公開されている資料にはそろっていないと考えます。構成を担った酒井と、描いた手塚、二人の合作の成果とみるのが、資料の範囲では穏当です。
版ごとの違いと「幻」と呼ばれた理由
1947年の複数の版
1947年だけでも、1月30日発行の初版(ハードカバー)、4月20日の改訂版、ローマ字表記が異なる再版、赤本版などがあり、描き版が複数確認されています。「新宝島」といっても、どの版を指すのかで中身が違うのです。
初版の奥付には著者として酒井の名しか載りませんでした。このため、二人は決裂したと語られることが多いのですが、酒井の項目には別の事実も記されています。1948年の集合写真が見つかっており、手塚も酒井の集会に毎年出席していたと述べています。ただし、「新宝島」以後、二人の合作はありません。
1986年版:手塚が描き直した「新宝島」
1986年10月3日、講談社の手塚治虫漫画全集の一冊として、手塚自身が描き直した版が刊行されました。変更点には、三段組から四段組への変更、犬との出会いの場所を「船の中」から「波止場へ行く途中の道路」へ移したこと、サブタイトルと目次の削除、手塚本人が描いたものではない書き文字の削除、ターザンの顔の修正、一部コマの順序変更、そしてラストシーンの追加が挙げられています。
描き直しの背景として、当時の原稿を紛失していたこと、赤本マンガの復刻は職人の描き版で手塚本人の絵ではないこと、酒井の手が入っていて手塚作品とは言えないことが挙げられています。追加されたラストシーンは、元の執筆時に構想されながらカットされたものだと記されています。その内容までは資料に書かれていないため、結末が夢だったかどうかには触れません。
2009年の復刻版
手塚は長く復刻を拒み、作品の価値も否定的に見ていたとされます。そのため、1947年の初版を正式に復刻したものは、2009年2月27日に小学館クリエイティブから出た版が初めてだとされています。通常版は2,000円、豪華限定版は7,980円で、本文は192ページです。
1986年版と並べると、手塚が自分の作品として描き直した形と、1947年当時の子どもたちが読んだ形を、読み比べられます。
ゆかりの地と関連する人物
手塚治虫の生涯と宝塚市
手塚治虫は大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)で生まれ、兵庫県宝塚市で育ちました。宝塚市の名誉市民でもあります。「新宝島」の後は『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』を連載し、1963年には日本初の30分テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作しました。のちに『アドルフに告ぐ』なども手がけ、1988年に胃がんが見つかり、1989年に東京都千代田区麹町で亡くなりました。
兵庫県宝塚市には宝塚市立手塚治虫記念館があります。手塚治虫の項目には、2代目桂春団治のポスター画の現物が同館に展示されているとあります。開館時間や休館日は変わることがあるため、訪れる前に宝塚市の公式サイトで最新の案内を確かめてください。
影響を受けた人たち
「新宝島」の衝撃を語った漫画家として、藤子不二雄、石ノ森章太郎、ちばてつや、望月三起也、楳図かずお、中沢啓治らが挙げられています。劇画の作家では、辰巳ヨシヒロ、桜井昌一、佐藤まさあきが衝撃を語っています。漫画家以外にも、この本の影響を語る人が多くいます。
一方で、横井福次郎は本作を酷評したとされます。全員が絶賛したわけではない点も、作品を評価するうえで見ておきたいところです。
酒井七馬のその後
酒井は1950年ごろから紙芝居作家に転じ、左久良五郎の名で多くの作品を発表して、1964年まで続けました。1966年以降はテレビアニメ『オバケのQ太郎』などの絵コンテを担当し、若手漫画家の育成にも力を入れました。1969年に肺結核で亡くなっています。
よくある質問
「新宝島」は何部売れたのですか。
正確な数は分かっていません。4万部という推測、40万部という証言、80万部とする説があり、どれも確定していません。
「新宝島」は誰が描いたのですか。
作画は手塚治虫、原案・構成は酒井七馬とされています。ただし手塚は、構成の草案は自分が書いたと1986年版のあとがきに記しており、分担には食い違いがあります。
1947年版と1986年版は何が違いますか。
1986年版は手塚が描き直したもので、三段組から四段組への変更、ターザンの顔の修正、ラストシーンの追加などが行われました。1947年の形に近いものを読みたいなら、2009年に出た復刻版が初の正式な復刻とされています。
手塚と酒井は、この作品で決別したのですか。
決裂したと語られることが多いものの、初版の奥付に酒井の名しかなかったことが根拠とされます。一方、手塚が酒井の集会に毎年出席していたと述べていることも分かっており、単純には言い切れません。ただ、「新宝島」以後に二人の合作はありません。
この作品を読んで漫画家になった人はいますか。
藤子不二雄や石ノ森章太郎ら、多くの漫画家が影響を受けたと語っています。「この本だけで進路が決まった」と断定できる資料は、今回確かめた範囲にはありません。





