宮沢賢治

結論:都会の紳士が「食べる側」から「食べられる側」に回る物語。文明への反感を描く作品と読まれてきた

『注文の多い料理店』は、東京から来た2人の青年紳士が、山奥の西洋料理店「山猫軒」で、客のつもりが料理の材料にされかけるという童話です。宮沢賢治の生前に出版された唯一の短編集の表題作で、1924年(大正13年)12月1日に刊行されました。

「文明批判の物語」という読みには根拠があります。刊行時の宣伝用チラシ(賢治が書いたと推定されています)が、収録作品を「糧に乏しい村のこどもら」が都会文明や放恣(ほうし)な階級に抱く反感を描いたものとしているからです。ただし、作品そのものに作者の解説は付いていません。ここから先の「風刺」という読みは、読者が作品とチラシから引き出した解釈です。この記事では、確かめられた事実と解釈を分けて整理します。

基本情報

  • 作者:宮沢賢治(1896年〈明治29年〉8月27日〜1933年〈昭和8年〉9月21日、満37歳没)
  • 出身地:岩手県稗貫郡花巻川口町(現在の花巻市)
  • 時代:大正時代(刊行は1924年)
  • 刊行日:1924年(大正13年)12月1日。定価は1円60銭
  • 刊行の形:盛岡の杜陵出版部と東京の光原社の名義で1000部。「イーハトヴ童話」と銘打たれた
  • 位置づけ:賢治の生前に出版された唯一の短編集。表題作は小学校の国語教材にもなっている
  • 収録作品:全9編と『序』

注文の多い料理店のあらすじと、物語の仕掛け

山に入った2人の紳士と、猟犬の死

物語の主人公は、東京から来た2人の青年紳士です。狩猟のために山奥へ入りますが、獲物は見つかりません。案内役の専門の猟師ともはぐれてしまいます。連れていた2匹の猟犬も、不思議な死に方をします。ここで注目されるのは、2人の反応です。犬の死を悼むのではなく、損をした金額のことしか気にしません。

山猫軒の扉と注意書き

迷い込んだ2人は、「西洋料理店 山猫軒」の看板を見つけて店に入ります。店内には扉が次々に現れ、そのたびに注意書きがあります。2人は注意書きを自分たちに都合よく解釈し、言われるままに進んでいきます。

最後の扉の注意書きで、2人は気づきます。客として迎えられていたのではなく、自分たちが食材として扱われていたのです。

猟犬の登場と、くしゃくしゃの顔

恐怖で泣き崩れる2人のところへ、死んだはずの猟犬が現れ、屋敷を襲います。屋敷は消え、2人は服を失ったまま、寒い風の中に立っています。やがて猟師が戻り、2人は宿に帰ります。しかし顔は恐怖でくしゃくしゃになったまま、元に戻りませんでした。助かったあとも傷が残る結末が、この童話を単なる笑い話にしていません。

文明批判と読まれる理由と、山猫軒をめぐる諸説

宣伝チラシが示した作品の方向

文明批判という読みの最大の手がかりは、前述の宣伝用チラシです。収録作品は、食べ物にも乏しい村の子どもたちが、都会の文明や、放恣な階級に対して抱く反感を描いたものだと説明されています。そう読むと、物語の筋はよく噛み合います。山に狩りに来る都会の紳士は、獲物を求める「食べる側」です。それが山猫軒では、料理される側に立たされます。立場の逆転が、都会に向けられた反感の形になっていると読めるのです。

ただし、Wikipedia の記述には「風刺」という語そのものは出てきません。チラシから読み取れるのは、都会文明や特定の階級への反感という方向までです。「西洋文化への憧れと内面の貧しさの対比」「山の神としての山猫の審判」といった細かな読みは、読者や研究者による解釈の領域で、作者が明言したことではありません。

山猫軒のモデルは花巻の精養軒?

山猫軒のモデルについては、1924年に花巻に建てられた花巻精養軒だとする説があります。大本泉の著作が紹介している説です。賢治は同店の店主と知り合いで、教え子にテーブルマナーを教えるため、この店で食事をふるまったこともあったようです。

この話からは、賢治が西洋料理を知らない人ではなかったことが分かります。作品は、西洋料理やその作法を知らない者が笑われる話ではありません。都会の紳士が、店の指示に疑いを持たずに従う姿が笑いと恐怖の種になっています。ただしモデル説は説の一つで、確定した事実ではありません。

書名をめぐる心配

書名についても逸話があります。当初の予定書名は『山男の四月』でした。表題を『注文の多い料理店』にするよう強く推したのは、協力者の及川四郎です。ただし、この書名では飲食店向けの商業テキストと誤解されるおそれがあるとして、他の2人は当初ためらったとされます。

出版の経緯と、売れなかった童話集

光原社と、2人の後輩

刊行を計画したのは、賢治の盛岡高等農林学校の後輩にあたる近森善一と及川四郎でした。発行人は近森善一です。挿絵は菊池武雄が描いています。出版社名義の光原社は、この童話集の出版元として知られます。1000部が作られ、杜陵出版部と東京光原社の名義で世に出ました。

全12巻の構想と中止

この本は、全12巻の「イーハトヴ童話集」の第1冊として構想されました。ところが売れ行きも評判も振るわず、以後の出版は取りやめになりました。ほとんどが売れ残り、賢治は200部を自費で買い取ったとされています。Wikipedia の宮沢賢治の項には、賢治が父から300円を借りて買い取ったという記述もあります。鈴木三重吉は作品を評価しなかったと伝えられています。

賢治はこの年の4月にも、詩集『春と修羅』を自費で1000部出しています。生前に出版された著書は、この詩集と『注文の多い料理店』の2冊です。没後には、草野心平の尽力によって多くの作品が刊行され、世に広まりました。

収録9編と、戦後の復刻

収録されたのは次の9編です。『どんぐりと山猫』『狼森と笊森、盗森』『注文の多い料理店』『烏の北斗七星』『水仙月の四日』『山男の四月』『かしわばやしの夜』『月夜のでんしんばしら』『鹿踊りのはじまり』。作品は1921年から1922年前半にかけて完成しました。

1947年には復刻版が出ましたが、このとき『烏の北斗七星』は全文が削除されました。また、『注文の多い料理店』の冒頭の一部も、GHQの検閲によって削除されています。

イーハトヴという名前

「イーハトヴ童話」の名にある「イーハトーブ」は、賢治が作品の中に描いた架空の理想郷の名前です。郷里の岩手県を題材にしています。この童話集は、一連のイーハトヴ童話集の1冊目として構想されていました。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 花巻市立宮沢賢治記念館:1982年開館。花巻市矢沢の胡四王山にあります
  • 身照寺(花巻市):宮沢家の墓所。宮沢家は1951年に日蓮宗へ改宗し、墓所がこの寺に移されました
  • もりおか啄木・賢治青春館(盛岡市):賢治の顕彰施設の一つ

関連する人物

  • 近森善一:賢治の盛岡高等農林の後輩。『注文の多い料理店』の発行人
  • 及川四郎:同じく後輩で、出版の協力者。書名を強く推した
  • 菊池武雄:初版の挿絵を描いた人物
  • 草野心平:没後に賢治の作品を広めた人物の一人

よくある質問

『注文の多い料理店』は何年に出版されましたか?

1924年(大正13年)12月1日です。盛岡の杜陵出版部と東京の光原社の名義で1000部が刊行され、定価は1円60銭でした。

この童話は文明批判なのですか?

刊行時の宣伝用チラシが、収録作品を都会文明や放恣な階級への反感を描くものと説明しています。この読みには根拠があります。ただし、作品に作者自身の解説は付いておらず、細かな読みは解釈です。

山猫軒にはモデルがありますか?

1924年に花巻に建てられた花巻精養軒がモデルだとする説があります。賢治は同店の店主と知り合いだったといいます。確定した事実ではなく、説の一つです。

生前に売れましたか?

ほとんど売れませんでした。予定されていた全12巻の童話集も続かず、賢治は200部を自費で買い取ったとされています。

収録されているのは何編ですか?

表題作を含む全9編と『序』です。『どんぐりと山猫』『鹿踊りのはじまり』などが入っています。