宮沢賢治

結論:宮沢賢治に妻はいない。生涯独身で、理由は一つに決まらない

宮沢賢治は結婚しないまま、1933年(昭和8年)9月21日に急性肺炎で亡くなりました。満37歳でした。妻にあたる人は実在しません。

ただし、結婚を考えたことが一度もなかったわけではありません。10代のときには入院先で出会った看護婦への思いを両親に打ち明けて反対され、農学校の教員時代には見合い話が次々に持ち込まれました。賢治はこれを受け付けず、禁欲を語る一方で、晩年には「まるっきりムダでした」と語ったと伝えられます。

独身の理由として、信仰、病気、家との関係、妹トシの死などがよく挙げられます。しかしWikipediaを見るかぎり、本人が理由を一つにまとめて述べた記録はありません。この記事では、確かめられる出来事を並べ、「噂された女性」として語られてきた人々の実際を整理します。

基本情報

  • 生没年:1896年(明治29年)8月27日〜1933年(昭和8年)9月21日(享年37)。生年月日は戸籍上は8月1日で、27日は推定とされる
  • 出生地:岩手県稗貫郡花巻川口町(現・花巻市)
  • 時代:明治〜昭和初期(活動の中心は大正時代)
  • 立場:詩人・童話作家。稗貫農学校(後の花巻農学校)の教諭を1921年12月から1926年3月まで務めた
  • 代表作:『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『セロ弾きのゴーシュ』『雨ニモマケズ』など
  • 生前に出た本:詩集『春と修羅』(1924年)と童話集『注文の多い料理店』(1924年)の2冊のみ
  • 配偶者:なし(生涯独身)
  • 墓所:身照寺(花巻市)

宮沢賢治に妻がいなかった理由と結婚話の経緯

最初の結婚の申し出は、入院先で出会った看護婦

1914年、賢治は盛岡の岩手病院に入院しました。そこで出会った看護婦に思いを寄せ、退院後に両親へ結婚を申し出ています。両親は若すぎるとして反対しました。父の政次郎は、賢治がひどく早成なところがあって困った、という意味のことを語ったと伝えられます。

Wikipediaはこの看護婦の実名を載せていません。確かめられた資料に名前がないため、この記事でも書きません。

農学校時代の見合い話と「野の食卓」の女性像

稗貫農学校の教員になると、見合い話が次々に持ち込まれました。両親も結婚を望みましたが、賢治は受け付けませんでした。

友人の藤原嘉藤治には、性欲を使い果たすと身を滅ぼし、いい仕事もできなくなる、という趣旨のことを語ったとされます。一方、野原の食卓に露のように現れて給仕し、去っていくような女性なら結婚してもよい、と話したとも紹介されています。現実の結婚相手を探す話というより、理想の像を語った言葉です。

伊豆大島の伊藤家訪問と、最後に出た結婚の話

1928年6月、賢治は伊豆大島の伊藤七雄を訪ねました。この訪問には、七雄の妹チヱとの見合いの意味もありました。しかしチヱによれば、賢治は結婚を眼中に入れていないようだったといいます。

ところが1931年には、森荘已池に「伊藤さんと結婚するかもしれません」と話したと伝えられます。この話は実現しませんでした。賢治は1928年8月に両側肺浸潤と診断されて実家で療養生活に入り、1931年9月には上京中に発熱で倒れ、旅館で家族に遺書を書いています。体調が結婚を現実から遠ざけた面はあるでしょうが、それが理由だと賢治が書き残したわけではありません。

晩年の言葉:禁欲は「まるっきりムダでした」

晩年の賢治は、森荘已池に、禁欲は「まるっきりムダでした」と語ったとされます。自然を描くように性愛も書きたい、という意味のことも述べたとされています。

一方で、童貞だったという説と、遊郭へ行ったと明るく話したという証言があり、真偽は分かりません。「清らかな聖人」という像も、「禁欲を悔いた人」という像も、どちらも断定はできないというのが実情です。

「妻候補」と噂された女性たち:高瀬露をめぐる誤解と実像

高瀬露とはどんな人か

高瀬露は1901年12月29日に生まれ、1970年2月23日に亡くなった女性です。1927年初頭、小学校の訓導として働いていたころに賢治と知り合いました。高橋慶吾の紹介で羅須地人協会を訪ね、家事などの世話を申し出たとされています。羅須地人協会は、賢治が1926年4月に、花巻町下根子桜の別宅(かつて妹トシが療養した場所)で始めた活動です。

露はたびたび協会に通いました。賢治は顔に灰を塗って面会したこともあったとされ、その厚意を避けたとされています。協会でカレーライスを出された際には、自分には食べる資格がないとして拒み、露はオルガンを激しく鳴らして怒った、という話も記録されています。

「悪女」の話はどこから広まったのか

賢治は露の度重なる贈り物や訪問を次第に迷惑がるようになりました。賢治のほうから布団を贈ったことがあり、それが結婚の意思と誤解されたとも伝えられます。

1930年ごろに恋が破れると、露は賢治についての作り話を言いふらした、という話が語られてきました。賢治はこれに怒り、露を非難する詩を書いています。こうした逸話は、佐藤隆房や森荘已池の著書で紹介され、小倉豊文や儀府成一も取り上げました。

ここで注意したいのは、これらの逸話がいずれも高橋慶吾の証言が元になっているという点です。複数の本に載っていても、情報の出どころは一つということになります。

再評価:逸話の信憑性は検証されていない

1996年の『図説 宮沢賢治』で、上田哲は、この逸話の信憑性が検証されていないことを問題にしました。露自身が「事実でないことが語り継がれている」と述べていたことも指摘されています。上田は、結婚準備の話や、結婚できなかった恨みによる中傷といった話を、裏づけのない噂だと断じました。

その後の露は、1932年に神主の小笠原牧夫と結婚しました。1945年に夫と死別し、戦後は小学校の養護教諭として1960年の退職まで勤めています。1939〜40年には、「露草」の名で賢治を悼む短歌を発表しました。

なお、露の項目のWikipediaは単一の出典に頼っており、中立性に議論があるとされています。露と賢治の間に何があったのかは、確かな記録だけでは決着がつきません。賢治の「妻になりかけた女性」という見方も、「賢治を陥れた悪女」という見方も、どちらも根拠が十分とは言えません。

独身の背景を探る:信仰・妹トシ・保阪嘉内との関係

法華経と国柱会への入信

1914年、賢治は島地大等訳の『妙法蓮華経』の「如来寿量品」に強く感銘を受けたとされます。1920年には国柱会に入信し、田中智學の著作を読み通しました。寒修行として、太鼓を叩きながら題目を唱えて歩いたといいます。父の政次郎には改宗を迫り、激しく口論しました。

信仰が賢治の生き方の中心にあったことは確かです。ただし、法華経や国柱会の教えが独身の理由だと賢治本人が書いた記録は、今回確かめた範囲にはありません。信仰と独身を結びつけるのは、後世の解釈です。

妹トシの死と、1922年11月27日

妹のトシは1898年生まれで、成績優秀で日本女子大学校に進みました。1918年12月に肺炎で東京の病院に入院し、賢治は母と上京して看病しました。退院は1919年3月3日です。1921年の夏から秋にかけて、病気の知らせを受けた賢治は帰郷したとされます(時期には諸説あります)。

トシは1922年11月27日午後8時30分に亡くなりました。享年24です。賢治は『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』などを書いています。トシの遺骨の半分は、国柱会本部に納められたとされます。

トシへの思いを「魂の伴侶」のように語る解釈もありますが、これは作品の読み方の一つです。ここでは、最愛の妹を失った出来事があり、それが作品に結びついたという事実だけを押さえておきます。

保阪嘉内:「恋人」と呼び合った友人

保阪嘉内は、盛岡高等農林学校で寮の同室になった1年後輩です。二人は互いを「恋人」と呼び合うほど親密で、賢治の手紙には恋人に宛てたような表現が含まれていました。『銀河鉄道の夜』にも影響したと考える研究者がいます。

嘉内が『アザリア』に発表した作品が問題となり、1918年3月13日に除籍処分になりました。賢治は教授会に抗議しましたが、受け入れられませんでした。賢治は嘉内に入信を勧める手紙を送りましたが、嘉内の実家が神道であったため断られました。1921年7月に再会した後は疎遠になったとされています。

この関係を「同性愛だった」と言い切る資料は、今回確かめた範囲にはありません。親密さと、疎遠になった経緯が記録されている、というところまでが確かな事実です。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 花巻市立宮沢賢治記念館:1982年に花巻市矢沢の胡四王山に開館した
  • 身照寺(花巻市):賢治の墓所。1951年に宮沢家が日蓮宗に改宗した際、墓所が移された
  • 下根子桜の別宅:羅須地人協会が置かれた場所。もともとはトシが療養していた

関連する人物

  • 宮沢政次郎:父。賢治の改宗の求めに激しく反発した
  • 宮沢トシ:妹。1922年に24歳で亡くなった
  • 保阪嘉内:盛岡高等農林学校の後輩。互いを「恋人」と呼び合った
  • 藤原嘉藤治、森荘已池:賢治の友人。結婚や禁欲についての発言を伝えた
  • 高瀬露:小学校の訓導。羅須地人協会に通った。のちに小笠原牧夫と結婚した

よくある質問

宮沢賢治に妻や子どもはいましたか?

いません。賢治は生涯独身で、1933年に37歳で亡くなりました。

高瀬露は賢治の婚約者だったのですか?

婚約者だったという確かな記録は、確かめた範囲にはありません。露が協会に通い、世話を申し出たことは伝わっていますが、結婚準備の話は裏づけのない噂だとする指摘があります。

賢治は結婚を望んでいなかったのですか?

一概には言えません。10代のころは看護婦への思いを両親に打ち明け、晩年の1931年には「伊藤さんと結婚するかもしれません」と話したと伝えられます。一方で見合い話は受け付けませんでした。

独身を貫いたのは信仰のためですか?

信仰が生き方の中心にあったのは確かですが、それが独身の理由だと賢治自身が書いた記録は、確かめた範囲にはありません。禁欲を語りながら、晩年にはそれを「まるっきりムダでした」と述べたとも伝えられます。

賢治の生前、作品は売れていたのですか?

生前に刊行された詩集と童話集は、1924年の『春と修羅』と『注文の多い料理店』の2冊だけです。生前は一般に無名に近く、没後に草野心平らの尽力で広く知られるようになりました。