聖徳太子

飛鳥時代に活躍した聖徳太子は、日本の歴史において最も有名な人物の一人だ。当時の日本は、有力な豪族たちが権力を巡って争いを繰り広げ、国のまとまりが著しく弱まっていた時期にあたる。そのような混乱した状況の中で、彼は天皇を中心とした新しい国づくりを目指し、政治の仕組みを根本から整えようと尽力したリーダーであった。

聖徳太子がしたこととして特によく知られているのが、「冠位十二階」や「十七条憲法」の制定、そして「遣隋使」の派遣である。これらは単なる制度の変更にとどまらず、日本が独立した文明国として、中国などの国際社会に対等に認められるための重要なステップだった。また、仏教を深く信仰し、法隆寺をはじめとする多くの寺院を建て、日本仏教の基礎を築いたことでも知られている。

一方で、彼の人生には数多くの伝説が彩られており、その実像については今なお多くの謎が残されている。一度に多くの人の話を聞き分けたという超人的な逸話や、未来を予知したという不思議な話は有名だが、近年の歴史学の研究では「聖徳太子」という呼称そのものが死後に贈られた尊称であることが明らかになっている。

この記事では、聖徳太子が行った政治的な改革や外交政策、文化的な貢献について詳しく掘り下げる。また、彼の実在性をめぐる議論や、学校の教科書での扱いの変化といった最新の話題についても触れていく。彼が目指した理想の国家像とは一体何だったのか、その足跡を丁寧にたどっていこう。

国の仕組みを整えた聖徳太子がしたこと

女性天皇を支える摂政として蘇我氏と協力

聖徳太子が政治の表舞台に立ったのは、叔母にあたる推古天皇が即位したことが大きなきっかけだった。推古天皇は日本で初めての女性天皇であり、当時の政治情勢は極めて不安定なものだった。その直前には、天皇の暗殺という前代未聞の事件が起きるなど、有力な豪族同士の争いが絶えなかった。特に、仏教導入を巡って対立していた蘇我氏と物部氏の激しい抗争を経て、蘇我氏が絶大な権力を握っていた背景がある。

太子は推古天皇の「摂政」という立場に就き、天皇に代わって政治の政務全般を取り仕切る役割を担ったとされる。彼は若くしてその政治的才能を発揮し、当時の最大の実力者であった大臣・蘇我馬子と協力関係を築いた。蘇我氏は非常に強力な軍事力と経済力を持つ豪族だったため、彼らと敵対するのではなく、うまく協調しながら政治を進めることが、国内の安定には不可欠だったからである。

この協力体制のもとで、太子は天皇を中心とする中央集権的な国家体制の確立を目指した。それまでの日本は、各地の豪族がそれぞれの土地や民を私的に支配する連合体のような側面が強かったが、太子はこれを改めようとした。天皇のもとに権力を集中させ、豪族を天皇の家臣として組織化することで、国としての統一感を高めようとしたのである。

このような政治手腕は、当時の緊迫した国際情勢とも無関係ではない。隣国の中国では、数百年ぶりに南北を統一した隋という強大な帝国が誕生しており、日本も強力な統治機構を持たなければ飲み込まれてしまうという危機感があった。太子と蘇我馬子、そして推古天皇の三者は、それぞれの立場から国を強くするために連携し、矢継ぎ早に数々の改革を推し進めていったのである。

家柄より能力を重視する冠位十二階の制定

603年に制定された「冠位十二階」は、日本の歴史における極めて画期的な人事制度改革だった。それまでの日本では「氏姓制度」という仕組みが採用されており、役人の地位や仕事は、生まれた家柄や氏(ウジ)によってあらかじめ決まっていた。つまり、どれほど優秀な才能を持つ人物であっても、家柄が低ければ高い地位に就くことはできず、国政の中枢に関わることは難しかったのである。

聖徳太子はこの古い慣習を打破し、個人の才能や功績に応じて位を与えるシステムを導入した。これが冠位十二階である。この制度では、役人の位を12の段階に分け、それぞれの位に対応する色の冠を授けた。位の名称には、徳・仁・礼・信・義・智という儒教の徳目を採用し、それぞれを大と小に分けて計12階級としたのである。これにより、位は個人に与えられるものとなり、世襲されるものではなくなった。

この制度の最大の目的は、家柄にとらわれずに優秀な人材を広く登用することにあった。これにより、有力な豪族の出身でなくても、国のために功績を上げれば出世できる道が開かれた。これは役人たちのモチベーションを高めるだけでなく、天皇に直接仕える官僚を増やすことで、既存の有力豪族の影響力を相対的に弱め、天皇権力を強化する狙いもあったとされる。

また、この制度は外交的な意味合いも強く持っていた。当時、中国や朝鮮半島の国々では、服の色や冠によって身分を表す制度が一般的だった。日本も同様の制度を整えることで、外国の使節が来日した際や、逆に日本から使節を送る際に、相手に対して文明国としての体裁を整えることができたのである。冠位十二階は、国内の政治改革であると同時に、国際的なスタンダードに合わせるための重要な政策でもあった。

役人のあるべき姿を説いた十七条憲法の制定

604年に制定された「十七条憲法」は、日本で最初の成文法として広く知られている。ただし、これは現代の私たちがイメージするような、国民の権利や国家の統治機構(議会や裁判所など)を定めた近代的な「憲法」とは性質が大きく異なる。どちらかと言えば、朝廷に仕える役人(豪族たち)が守るべき道徳的な規範や、公務員としての心構えを説いた教訓集といった色合いが強い。

第一条にある「和を以て貴しと為す」という言葉はあまりにも有名だ。これは、無用な争いを避け、話し合い協調することを最も大切な徳目とする教えである。当時、豪族同士の私闘や権力争いが絶えなかったことへの深い反省や、国を一つにまとめるためには協調性が不可欠であるという太子の強い思いが込められている。

また、第二条では「篤く三宝を敬え」と説き、仏教(仏・法・僧)を大切にすることを求めている。太子は仏教の教えを政治や道徳の基盤に据えようとしていたことがわかる。さらに第三条では「天皇の命令には必ず従え」とし、天皇を中心とした主従関係を明確にすることで、中央集権化を進める意図が示されている。ここでは、天皇を絶対的な君主として位置づける思想が反映されている。

この憲法には、仏教だけでなく、儒教や法家思想の影響も色濃く見られる。例えば、訴訟を公平に行うことや、私欲を捨てて公のために働くこと、適材適所の人事を行うことなどが記されている。これらは、国家の役人としてあるべき高い倫理観を具体的に示したものであり、豪族たちに対して「私的な支配者」から「公的な官僚」へと意識を変革させるための指針だったのである。

小野妹子を派遣した遣隋使と対等外交

聖徳太子が行った外交政策の中で最も重要なのが、遣隋使の派遣である。当時の中国は隋という強力な王朝によって統一されており、東アジアの中心として圧倒的な軍事力と文化力を持っていた。周辺の国々は隋の皇帝に貢ぎ物を送り、家臣としての扱いを受ける「冊封体制」に組み込まれていたが、太子はこの従属的な関係を変えようと試みた。

607年、太子は小野妹子を使者として隋に派遣した。その際に持たせた国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という有名な一文が記されていた。これは、日本の君主も隋の皇帝と同じ「天子」であると主張し、対等な外交関係を求めたものである。これを見た隋の皇帝・煬帝は、辺境の小国からの無礼な手紙だと激怒したと伝えられている。

しかし、煬帝は最終的にこの使節を受け入れ、返礼の使者として裴世清を日本に派遣している。これには当時の隋が朝鮮半島の高句麗との戦争を控えており、背後にある日本と敵対して高句麗と手を組まれることを恐れたという国際情勢が背景にあった。太子はそのような情勢を冷静に見極めた上で、あえて大胆な国書を送り、独立国としての地位を認めさせようとしたのである。

遣隋使の目的は、単に対等な関係を築くだけではなかった。留学生や留学僧を共に派遣し、隋の進んだ政治制度や仏教、文化、技術を学ばせることが大きな狙いだった。彼らが長期間にわたって学び、持ち帰った知識や制度は、その後の日本の国づくりに多大な影響を与えた。彼らは後の大化の改新などの改革において中心的な役割を果たし、太子の蒔いた種が大きく花開くことになったのである。

文化や宗教の面で聖徳太子がしたこと

世界最古の木造建築である法隆寺の建立

聖徳太子は仏教を深く信仰し、その普及のために多くの寺院を建立したと伝えられている。その中でも最も有名なのが、奈良県にある法隆寺だ。法隆寺は別名を斑鳩寺ともいい、太子が住んでいた斑鳩宮の隣に建てられた。現在、法隆寺の西院伽藍は世界最古の木造建築群として世界的に知られ、日本で初めてユネスコの世界文化遺産に登録されたことでも有名である。

法隆寺の建立は、単なる宗教施設の建設以上の意味を持っていた。それは、仏教を中心とした新しい文化や技術を日本に根付かせるための拠点作りでもあった。大陸から招いた職人たちの高度な技術が注ぎ込まれており、飛鳥時代の建築様式や美術工芸の粋を集めた場所となっている。エンタシスの柱を持つ金堂や、優美な姿を見せる五重塔の美しさは、当時の日本の文化水準の高さを今に伝えている。

法隆寺の創建については、607年頃に太子と推古天皇によってなされたとされる。しかし、現在の建物が太子が生きていた当時のものか、それとも一度焼失して再建されたものかについては長らく論争があった。現在では、『日本書紀』の記述や発掘調査の結果から、670年に一度焼失し、その後まもなく再建されたという説が定説となっている。

たとえ建物が再建されたものであったとしても、太子が目指した仏教文化の精神が受け継がれていることに変わりはない。法隆寺には釈迦三尊像など、太子ゆかりの国宝が数多く安置されている。特に夢殿にある救世観音像は、太子の等身大の像であるという伝説があり、長らく秘仏として大切に守られてきた。これらの文化財は、太子がいかに当時の人々から尊崇され、仏教興隆の象徴的な存在であったかを物語っている。

仏教の教えを広めて国の精神的支柱にする

聖徳太子が生きた時代、仏教はまだ日本に伝来してからそれほど時間が経っておらず、受け入れに反対する勢力も強かった。特に物部氏などの保守的な豪族は、日本古来の神々を軽んじるものとして仏教に強く反発し、蘇我氏との間で「崇仏論争」と呼ばれる争いが起きていた。しかし太子は、仏教こそが国を治め、人々の心を安らかにするために必要なものだと確信していた。

太子は「世間虚仮、唯仏是真(世の中は虚しく仮のものであり、ただ仏のみが真実である)」という言葉を残したと言われるほど、熱心な仏教徒だった。彼は仏教を単なる個人の信仰にとどめず、国家の精神的な支柱にしようと考えた。十七条憲法で「篤く三宝を敬え」と説いたのも、仏教の持つ慈悲や平等の道徳心によって、豪族たちの私利私欲を抑え、社会の秩序を保とうとしたからである。

彼は自ら経典を講義し、その教えを人々に説いたと伝えられている。当時の仏教は、大陸の先進的な学問や文化とセットで日本に入ってきており、仏教を学ぶことは最新の知識や世界観を吸収することでもあった。太子は仏教を通じて、単に宗教的な救済を説くだけでなく、大陸の高度な文明システムを日本社会に浸透させようとしたのである。

このような太子の活動により、仏教は急速に日本に定着していった。飛鳥時代には飛鳥文化と呼ばれる日本初の仏教文化が花開き、多くの寺院が建てられ、美しい仏像が作られた。これらは日本人の精神性や美意識に大きな影響を与え、神道とも融合しながら、後の時代においても仏教は日本文化の根幹をなす要素となっていった。

経典の解説書「三経義疏」の執筆

聖徳太子の仏教への造詣の深さを示す具体的な業績として、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」の執筆が挙げられる。これは、『法華経』『維摩経』『勝鬘経』という3つの重要な仏教経典に対する注釈書(解説書)の総称である。皇族でありながら、政治の激務の合間を縫って難解な経典の研究を行い、自ら解説書を書き上げたという点は、太子の学識の高さを如実に物語っている。

特に『法華経』の注釈書である『法華義疏』は、太子の真筆(直筆)とされる草稿が現存しており、皇室の御物として大切に保管されている。これは日本最古の書籍の一つとも言われ、訂正や書き損じの跡などが生々しく残っていることから、太子が推敲を重ねて執筆した様子がうかがえる極めて貴重な史料である。

三経義疏の内容からは、太子が中国の注釈書を参考にしつつも、独自の解釈を加えていたことが読み取れる。彼は中国の思想をそのまま受け売りするのではなく、日本人の精神風土や社会状況に合わせて仏教を理解しようとした形跡がある。例えば、在家(出家していない人々)であっても正しい行いをすれば悟りを開ける可能性を強調するなど、より実践的で寛容な仏教観を持っていたとされる。

ただし、これらの書物が本当にすべて太子の手によるものかについては、古くから議論がある。中国で作られた注釈書を基にしているという指摘や、一部は後世の僧侶によるものではないかという説もある。しかし、近年の研究でも、やはり太子自身の思想が反映されたものであるという見方は根強い。いずれにせよ、太子が仏教研究に情熱を注ぎ、その普及に知的なリーダーシップを発揮したことは間違いない。

歴史書「天皇記」や「国記」の編纂プロジェクト

聖徳太子は晩年、蘇我馬子とともに歴史書の編纂事業にも精力的に取り組んだ。それが『天皇記』と『国記』である。620年に完成したとされるこれらの書物は、天皇家の系譜や日本の歴史、諸豪族の由緒や起源などを記録したものだった。これは、国家としてのアイデンティティを確立するために非常に重要な国家プロジェクトだった。

当時、天皇の権威を高め、中央集権国家を築くためには、天皇家の正統性を歴史的に証明する必要があった。また、豪族たちの系譜を整理することで、それぞれの立場や順位を明確にし、無用な争いを防ぐ意図もあったと考えられる。歴史を公的に定めることは、過去を整理するだけでなく、未来の国家運営の根幹に関わる事業だったのである。

残念ながら、これらの歴史書は現在は残っていない。645年の乙巳の変(大化の改新の始まり)の際、蘇我氏の本宗家が滅亡する混乱の中で焼失してしまったと伝えられている。蘇我蝦夷が自邸に火を放った際に多くの書物が燃えてしまったが、『国記』の一部だけは難を逃れて、後に天智天皇となる中大兄皇子に献上されたという記録もあるものの、現存はしていない。

しかし、これらの歴史書編纂の試みは決して無駄にはならなかった。後に編纂される『古事記』や『日本書紀』といった国史の編纂事業に、その精神や資料の一部が引き継がれたと考えられている。太子が目指した「自国の歴史を記録し、後世に伝える」という強い意志は、日本の歴史記述の出発点として大きな意義を持っていたのである。

聖徳太子の伝説と実像にまつわる謎

「聖徳太子」という名前と本名の違い

「聖徳太子」という名前は、実は彼が生きていた当時に使われていた名前ではない。これは彼が亡くなってから100年ほど後に、その生前の偉大な功績を称えて贈られた尊称(おくりな)である。「聖徳」には「優れた徳を持つ聖人」という意味が込められており、いかに彼が後世の人々から理想的な指導者として尊敬されていたかがわかる。

彼の本名は「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」、あるいは「厩戸王(うまやどのおう)」という。この名前の由来には有名な伝説があり、母親が宮中の馬小屋(厩)の前を通りかかったときに、急に産気づいて彼を出産したためと伝えられている。キリストの生誕と似ていることから後世の創作とも言われるが、実際には単に「厩戸」という地名にちなんだものだという見方が有力である。

最近の学校の教科書では、歴史的な正確さを期すために「厩戸王(聖徳太子)」と表記されるケースが増えている。これは、彼が生きていた時代にはまだ「太子(皇太子)」という制度が確立していなかった可能性が高いことや、死後の伝説化された「聖人」としてのイメージと、歴史的な実像としての「政治家・厩戸王」を区別するためである。

とはいえ、「聖徳太子」という呼び名が完全に消えるわけではない。長きにわたり日本人に親しまれ、信仰の対象にもなってきたこの名前は、歴史用語としてだけでなく、文化的な記号としても深く定着している。本名と尊称の両方を知ることで、彼の歴史的な位置づけと、人々に愛された理由の両方をより深く理解することができるだろう。

10人の言葉を一度に聞き分けた豊聡耳の伝説

聖徳太子にまつわる伝説の中で最も有名なのが、「一度に10人の訴えを聞き分けた」というエピソードだ。ある時、太子に対して多くの人々が陳情に訪れた際、10人が同時に話し始めたにもかかわらず、太子はそのすべての内容を正確に理解し、一人一人に的確な返答をしたと言われている。この話は、太子の超人的な能力を示す代表的なものだ。

この伝説から、彼は「豊聡耳(とよとみみ)」という別名でも呼ばれるようになった。「耳が聡い(さとい)」、つまり非常に賢く、物事を聞き分ける能力に優れているという意味である。伝説のバリエーションは多く、幼少期にはもっと少人数だったが、成長するにつれて人数が増えたという話や、一度に聞いた人数によって彼の聡明さを表現する話が各地に残っている。

しかし、現代の常識で考えれば、物理的に10人の声を同時に聞き取ることは不可能に近い。この伝説の真相については、いくつかの解釈がある。一つは、太子があまりにも記憶力が良く、10人が順番に話した内容をすべて覚えていて、後でまとめて的確に指示を出したため、人々が驚いて「同時に聞いたようだ」と噂したという説である。

もう一つの解釈は、彼が多くの外国語や異なる方言を理解できたことを象徴しているという説だ。当時の日本には渡来人も多く、様々な言語が飛び交っていた可能性がある。多様な意見や異文化の言葉を理解し、調整する太子の政治的な能力の高さが、人々の中で誇張され、このような超人的な伝説として語り継がれていったのかもしれない。

紙幣の顔として親しまれた太子のイメージ

昭和から平成にかけての日本において、聖徳太子は「お札の顔」として圧倒的な知名度を誇っていた。特に1958年から長期間発行された一万円札の肖像画は有名で、高度経済成長期の日本において、高額紙幣の代名詞となっていた。「聖徳太子=一万円」というイメージを持つ年配の方は今でも多いだろう。

彼が紙幣の肖像に選ばれた回数は、日本の歴史上の人物の中で最多である。戦前から戦後にかけて、百円札、千円札、五千円札、一万円札と、合計7回も登場している。これほど頻繁に採用された理由は、彼が「和」の精神を説いた平和的な人物であり、天皇を中心とした国づくりをした功績が、国民統合の象徴としてふさわしいと考えられたからである。

紙幣に使われた肖像画は「唐本御影(とうほんみえい)」と呼ばれる、法隆寺に伝わる古い絵画が元になっている。二人の王子を従えて立つ姿は威厳に満ちているが、この絵自体が太子の死後、8世紀頃に描かれたものであり、生前の本当の顔立ちを伝えているかどうかは定かではない。それでも、この肖像は日本人の抱く太子のイメージとして定着した。

2024年の新紙幣発行により、お札の肖像画は他の人物に変わってしまったが、聖徳太子がお金持ちや経済的な豊かさのシンボルとして語られることは今でもある。お札の肖像としての現役の役割は終えたものの、その威厳ある姿は多くの日本人の記憶に深く刻まれており、彼が日本史における特別な存在であることを証明し続けている。

実在しない説や教科書記述の変化について

近年、歴史学の世界では「聖徳太子はいなかったのではないか」という衝撃的な議論が注目を集めることがある。いわゆる「聖徳太子虚構説」である。これは、厩戸王という人物は実在したが、彼が一人で行ったとされる数々の偉業(冠位十二階、十七条憲法、遣隋使など)の多くは、後の『日本書紀』編纂時に作られたフィクションが含まれているという主張だ。

この説によれば、当時の政治は太子一人の力ではなく、推古天皇や蘇我馬子といった有力者たちによる集団指導体制で行われていたとされる。太子は確かにその中心メンバーの一人ではあったが、後世の人々が彼を理想的な「聖人」として神格化する過程で、あらゆる功績が彼一人のものとして書き換えられたのではないか、というわけだ。特に十七条憲法などは、後世の創作の可能性が高いとする研究者もいる。

こうした研究の進展を受けて、学校の教科書や歴史の参考書での記述も変化してきている。以前のように「聖徳太子がすべてを行った」と断定するのではなく、「厩戸王(聖徳太子)が蘇我馬子と協力して政治を行った」というように、より慎重で客観的な表現が使われるようになっている。単独のヒーローではなく、政治チームの一員としての評価に変わりつつあるのだ。

しかし、これは「厩戸王という人物が存在しなかった」という意味ではない。彼が斑鳩の地に宮を構え、当時の政治や文化に大きな影響を与えた有力な王族であったことは、考古学的にも史料的にも疑いようがない。過度な伝説化を見直し、等身大の政治家としての実像を明らかにしようとする動きが、現在の歴史研究の主流となっているのである。

まとめ

聖徳太子(厩戸皇子)は、飛鳥時代の日本において、政治・外交・文化のあらゆる面で画期的な改革を行ったリーダーである。彼は家柄にとらわれない「冠位十二階」や、役人の倫理を説く「十七条憲法」を制定し、天皇を中心とした中央集権国家の基礎を築いた。また、遣隋使を派遣して大国・隋との対等な外交を目指し、大陸の進んだ文化や制度を積極的に取り入れた。

さらに、仏教を深く信仰し、法隆寺などの寺院建立や経典の研究を通じて、日本に仏教文化を根付かせた功績も計り知れない。彼の事績には「10人の話を一度に聞いた」といった伝説も多く含まれ、近年の研究ではその実像や呼称について新たな見直しも進んでいる。しかし、彼が混迷する時代の中で理想の国づくりに情熱を注ぎ、その後の日本のあり方に決定的な影響を与えた偉人であることは、決して変わることはないだろう。