結論:丹羽長秀は信長の天下事業を実務で支え、本能寺の変後は秀吉方に立った重臣
丹羽長秀(にわ ながひで)は、織田信長に仕えた武将です。戦場に出るだけでなく、安土城の築城奉行や検地、朝廷への使者といった役目もこなしました。天正元年(1573年)には佐和山領に加えて若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名になったとされます。
織田家中では「米五郎左」と呼ばれました。何でもこなせて、なくてはならない存在という意味だと伝わります。信長の死後は山崎の戦いと清洲会議で羽柴秀吉の側に立ち、賤ヶ岳の戦いのあとは越前を与えられて北庄に入りました。天正13年(1585年)4月16日に51歳で亡くなっています。
基本情報
- 生没年:天文4年(1535年)〜天正13年(1585年)。享年51
- 時代:戦国時代〜安土桃山時代
- 通称・官位:幼名は万千代、通称は五郎左衛門尉、官位は越前守。のちに朝廷から「惟住」の姓を賜り、惟住長秀とも称した
- 主君:織田信長、織田秀信(三法師)、豊臣秀吉
- 父:丹羽長政。正室は織田信広の娘で、信長の養女の桂峯院
- 主な業績:安土城の築城奉行、若狭・越前の統治、山崎の戦いと清洲会議での動き
- 死因:寸白(寄生虫による病)とされる。自刃したとも伝わる
- 家:嫡男の長重が継ぎ、のちに二本松藩主として明治まで続いた
丹羽長秀の生涯|織田信長に仕えた「米五郎左」の功績
尾張に生まれ、美濃攻めで頭角を現す
長秀は尾張国春日井郡の児玉村に生まれ、信長に仕えました。仕官の時期は、『丹羽家譜』では天文18年(1549年)、『寛永諸家系図伝』では翌19年とされ、資料によって一年ずれています。萱津の戦いや桶狭間の戦いにも従軍したと『丹羽家譜』は伝えます。
名が出てくるのは美濃攻めです。『信長公記』によると、加治田城の佐藤父子の内応、猿啄城の水の手を断つ作戦、堂洞城攻めなどで働きました。永禄11年(1568年)に信長が上洛すると、箕作城の攻略に加わり、禁裏への使者や近江の指出検地も受け持っています。大河内城、金ヶ崎、姉川の戦いにも参陣しました。
佐和山城から若狭一国へ
元亀2年(1571年)に磯野員昌が佐和山城を退去すると、長秀がその城主になります。天正元年(1573年)9月には佐和山領に加えて若狭一国を与えられました。
ただし、若狭は長秀が一国をまるごと握ったわけではありません。当初は遠敷郡が長秀、三方郡が粟屋・熊谷氏、大飯郡が逸見氏に割り当てられ、各領主は所領内に独立した支配権をもっており、長秀はそれらを軍事・治安・流通の面でまとめる立場でした。
「米五郎左」とは何を意味するあだ名か
『翁草』には、織田家中の評判として「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という言い回しが伝わります。木綿の藤吉は羽柴(木下)秀吉、掛かれ柴田は柴田勝家、退き佐久間は佐久間信盛を指します。米五郎左の「五郎左」は長秀の通称の五郎左衛門尉で、何でもこなせて誰にとっても欠かせない存在、という意味だとされます。
武功ひとつで目立つのではなく、軍事・奉行仕事・交渉のどれにも使える人物だった。この評判は、前節の経歴とよく重なります。
安土城の普請奉行から越前の大名へ|長秀の主な武功と役目
安土城築城の奉行を務める
天正4年(1576年)、長秀は安土城築城の奉行を務めました。それ以前にも、天正2年の蘭奢待の截香(東大寺の香木を切り取る行事)で奉行を担当しています。城づくりや儀式の取り仕切りを任された点に、信長の信頼がうかがえます。
天正3年の長篠の戦いに参陣した年の7月には、信長の奏請で朝廷から「惟住」の姓を賜りました。天正9年の京都御馬揃えでは、一番に入場する厚遇を受けています。
各地の戦いと、厳しい処断の役
長秀は紀州攻め、信貴山城の戦い、天正伊賀の乱などに加わり、天正7年には羽柴秀長とともに丹波の氷上城攻めに勝利したとされます。天正10年(1582年)3月の甲州征伐にも従軍し、その後は堀秀政と草津へ湯治に出かけました。
天正9年には、石黒成綱の誅殺や、寺崎盛永父子の幽閉・切腹にも関わっています。奉行や使者だけでなく、領国の処置という重い役も任されていたことがわかります。
名刀「あざ丸」を熱田神宮に奉納
逸話として、『信長公記』は長秀が千秋季光ゆかりの名刀「あざ丸」を所持し、眼病に悩まされたため熱田神宮に奉納したところ治ったと伝えています。武将の日常がのぞける記述です。
本能寺の変と清洲会議|羽柴秀吉との関係と晩年
本能寺の変のとき長秀はどこにいたか
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変のとき、長秀は織田信孝の四国派遣軍の副将として上方にいました。ただし信孝と岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けていた時期で、四国派遣軍とは別行動でした。そのため手勢が少なく、大きな軍事行動はとれませんでした。
6月5日には信孝らとともに織田信澄を殺害し、大坂城を占拠したとされます。信澄を討った理由については、後継者争いが背景にあったとする説もあります。
山崎の戦いと清洲会議
6月13日の山崎の戦いでは、長秀は秀吉方として明智光秀を破りました。戦後は、光秀方に奪われていた佐和山城も取り返しています。
6月27日の清洲会議には宿老の一人として出席しました。結果として近江の高島郡・滋賀郡を得て、佐和山城は堀秀政に譲っています。会議のあとは秀吉方として動き、織田信雄を織田家の家督に据える動きに加わったとされます。三男の千丸を秀吉の弟・秀長の養子に出したことも、秀吉との関係を深める一手でした。
「羽柴」は長秀の名からとったのか
秀吉の姓「羽柴」は、柴田勝家と丹羽長秀から一字ずつとったという話が有名です。『豊鑑』にこの記述がありますが、『豊鑑』の記述と秀吉が実際に羽柴を名乗った時期が合わないことから、この説には疑問も出されています。確定した事実としては扱えません。
なお、清洲会議の頃の長秀と秀吉は対等ではなく、勢力の差は明らかだったと整理されています。長秀が秀吉に従った背景には、こうした力関係もあったと考えられます。
賤ヶ岳の戦いのあと越前へ
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは秀吉方として参陣しました。戦後、若狭と志賀・高島二郡を離れ、越前国(敦賀郡などを除く)と加賀の江沼・能美二郡を与えられて北庄に入ります。石高は123万石とされています。
天正12年の小牧・長久手の戦いでは、8月に出陣したものの、9月末には佐々成政への備えのため領国へ戻りました。
丹羽長秀の最期と死因の諸説|石亀のような虫の話
天正13年4月16日、51歳で死去
長秀は天正13年(1585年)4月16日に亡くなりました。死因は寸白、つまり寄生虫による病とされています。一方で『多聞院日記』は、自刃したとも伝えています。
石亀のような虫が出た?『秀吉譜』の記述
『秀吉譜』には、長秀が腹の病に苦しんで自刃し、火葬のあとに出てきた寸白の虫が石亀のような形だったという記述があります。
ただし、Wikipedia はこの虫を寸白の虫と見るのが妥当だとしたうえで、真田虫ではなく蛔虫だとしています。また、割腹から二日後に亡くなっていることから、いわゆる切腹ではなかったとする見方もあります。死の真相は史料によって異なります。
墓所
墓所は福井にあり、Wikipedia は北之庄の総光寺の宗徳寺とし、戒名を総光寺大隣宗徳としています。寺名の細かな表記は資料で確かめきれないため、訪れる場合は福井市の観光案内などで所在を確認してください。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 安土城(近江):長秀が築城奉行を務めた信長の城
- 佐和山城(近江):磯野員昌の退去後に城主となり、山崎の戦い後に取り返した城
- 北庄(福井):賤ヶ岳の戦いのあと、越前を与えられて入った拠点。墓所も福井にある
- 熱田神宮(尾張):名刀「あざ丸」を奉納したと伝わる
- 二本松(福島県):長秀の子孫の丹羽家が藩主となった地
関連する人物
- 織田信長:主君。長秀は養女の桂峯院を妻に迎えた
- 柴田勝家・佐久間信盛:「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」で並べられた織田家の武将
- 羽柴秀吉・羽柴秀長:山崎の戦い以降、長秀が従った。三男の千丸は秀長の養子になった
- 丹羽長重:嫡男。父の死後に家督を継ぎ、関ヶ原で西軍に与して改易されたが、のちに古渡藩主として復活した。その後、江戸崎・棚倉・白河を経て、光重の代に二本松藩へ移り、明治まで二本松藩主として続いた
よくある質問
「米五郎左」とはどういう意味ですか?
『翁草』に伝わる織田家中の評判「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」の一節で、長秀が何でもこなし欠かせない存在だったことを表すとされます。「五郎左」は長秀の通称です。
丹羽長秀は織田家でどんな役目を務めましたか?
美濃攻めや姉川などの戦いに加わったほか、安土城の築城奉行、蘭奢待の截香の奉行、禁裏への使者、近江の指出検地を担当しました。若狭では国持大名となり、軍事のほか治安維持や流通統制の面で一国のとりまとめを担いました。
本能寺の変のとき、長秀はどこにいましたか?
織田信孝の四国派遣軍の副将として上方にいましたが、信孝と岸和田で接待を受けており、派遣軍とは別行動でした。そのため兵力が少なく、大規模な行動はできませんでした。
丹羽長秀の死因は何ですか?
寸白(寄生虫による病)とされます。『多聞院日記』は自刃とも伝え、『秀吉譜』には石亀のような虫が出たという話が載ります。Wikipedia は、この虫を蛔虫と見るのが妥当としています。
丹羽家はその後どうなりましたか?
嫡男の長重が継ぎ、一度は改易されたものの古渡藩主として復活し、のちに二本松藩主として明治まで続きました。





