与謝野晶子

結論:2人に接点はなく、同じ「時代を変えた人」として並べて読める

与謝野晶子と力道山が顔を合わせた記録はありません。晶子は1942年(昭和17年)5月29日、東京の荻窪の自宅で亡くなりました。その時点で力道山は、1940年に初土俵を踏んだ相撲の力士で、プロレスラーとして知られるのは戦後のことです。

活動した時代も場も違います。晶子は歌集『みだれ髪』で女性の自我を詠み、力道山は街頭テレビの前に人を集めるプロレスの興行を築きました。一方で、古いものを新しい形にして大勢に届けたという点では、並べて考えられる2人です。この記事では、2人の事実を順に押さえたうえで、どこが違い、どこが通じるのかを整理します。

基本情報

与謝野晶子

  • 生没年:1878年(明治11年)12月7日〜1942年(昭和17年)5月29日
  • 時代:明治・大正・昭和前期
  • 立場:歌人。堺の和菓子屋「駿河屋」の三女で、旧姓は鳳
  • 代表作:歌集『みだれ髪』(1901年)、「君死にたまふことなかれ」(1904年)、源氏物語の現代語訳

力道山

  • 生没年:1924年(大正13年)11月14日とされる(諸説あり)〜1963年(昭和38年)12月15日
  • 時代:昭和
  • 立場:大相撲の元関脇、プロレスラー、日本プロレス協会の設立者
  • 本名:百田光浩(出生名は金信洛)

与謝野晶子と力道山は会えたのか:1942年という断絶

晶子の最期と、その年の力道山

晶子は1940年5月に脳出血で右半身が不自由になり、1942年1月には意識を失いました。そして同年5月29日、荻窪の自宅で亡くなっています。死因は狭心症と尿毒症の併発です。葬儀は6月1日に青山斎場で行われ、墓は多磨霊園にあります。

同じころの力道山は、二所ノ関部屋の力士でした。初土俵は1940年5月場所で、幕内に入るのは戦後の1946年11月場所です。つまり晶子が生きていた間に、プロレスラーとしての力道山はまだ存在していません。

プロレスラー力道山の登場

力道山は1950年9月場所の前に相撲を廃業しました。理由は病気と説明されましたが、酒癖や金銭のトラブルが背景にあったとされています。1951年に来日したレスラーの練習を見てプロレス転向を決め、1952年に渡米してハワイで沖識名に師事しました。1953年に帰国し、日本プロレス協会を設立します。

この1953年は、日本でテレビ放送が始まった年でもあります。1954年2月19日からのシャープ兄弟との14連戦は、街頭テレビに人々が群がるほどの人気を集めました。晶子の死から12年後のことです。

「昭和の巌流島」と呼ばれた試合

シャープ兄弟との試合で力道山とタッグを組んだのが木村政彦です。木村が負け役を担わされたことで、2人の間には亀裂が入りました。1954年12月22日、日本ヘビー級王座決定戦が行われ、「昭和の巌流島」と呼ばれます。結果は、木村が力道山に一方的にKOされ、大量に吐血するというものでした。

試合前に「1試合目は引き分け」とする念書があったとされ、約束が崩れた試合だったという説もあります。詳しい経緯には今も分からない点が多く、真相は確定していません。

2人は何が違い、何が通じるのか:言葉と興行の仕事

『みだれ髪』と「君死にたまふことなかれ」

晶子は1900年に歌会で与謝野鉄幹と出会い、1901年に『みだれ髪』を刊行して、同じ年に鉄幹と結婚しました。女性の官能や自我を大胆に詠んだこの歌集で、浪漫派の歌人としての地位を固めます。

1904年には、日露戦争で旅順に従軍した弟を思った「君死にたまふことなかれ」を雑誌『明星』に発表しました。反戦の詩として知られます。ただし、後年の晶子には戦争を称える歌もあり、一貫していないという指摘があることも、あわせて知っておきたい点です。

母性保護論争と文化学院

平塚らいてうや山田わかが唱えた「母性保護」の主張に対し、晶子は、婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではないと述べ、経済的な自立を求めました。これが母性保護論争です。

1921年には西村伊作、石井柏亭、鉄幹らと東京・お茶の水に文化学院を創設しました。男女平等の教育を掲げた学校で、1923年から男女共学を実現したとされ、晶子は学監として女子教育にかかわっています。

源氏物語の現代語訳

晶子は源氏物語の現代語訳にも取り組みました。『新訳源氏物語』を経て、6巻本の『新新訳源氏物語』を1938年から1939年にかけて刊行しています。

力道山の興行と事業

力道山のほうは、リング上の勝負と並んで、事業の面でも動きました。赤坂にはリキ・アパートやクラブ・リキ、リキマンションを建て、渋谷には9階建ての常設会場「リキ・スポーツパレス」を建てました。ここにはレストランやボウリング場、ビリヤード場も併設されています。相模湖畔のゴルフ場の建設も進めましたが、未完に終わりました。

私は、この2人の共通点を「身近でなかったものを、大勢が受け取れる形にした」ことだと考えます。晶子は古典を現代語にし、力道山は海外のプロレスをテレビ時代の興行にしました。ただし、これは資料に書かれた事実ではなく、事実を並べたうえでの私の見方です。

よくある誤解と家族・出自:数字のずれにも注意

晶子の子どもは何人か

晶子の子どもは12人とされています。ただしWikipediaの本文には出産が11回とも書かれており、数に食い違いがあります。この記事では「12人とされる」と書くにとどめます。家計の事情などは確かめられた資料の範囲を超えるため、ここでは触れません。

力道山の出自と名乗り

力道山は日本統治下の朝鮮、咸鏡南道洪原郡で生まれたとされます。出自は長く公表されず、相撲を引退した後は長崎県大村市の出身と称していました。生年月日にも諸説があります。

力道山の最期

1963年12月8日の夜、力道山はナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、暴力団員と足を踏んだ踏まないで口論になりました。力道山が相手を殴ったところ、相手に登山ナイフで腹部を刺されます。山王病院で小腸4か所の縫合手術を受けましたが、12月15日に腸閉塞と腹膜炎で再手術となり、その夜に亡くなりました。死因は穿孔性化膿性腹膜炎からの敗血症性ショックとされます。麻酔ミスなどの医療過誤説もありましたが、2019年の報告で否定されています。

葬儀は12月20日に池上本門寺で行われ、1万人以上が参列しました。死後、事業の多くは経営不振に陥り、リキ・スポーツパレスは1967年に近畿観光へ売却されました。

「同じ時代に生きていた」わけではない

2人の名前を並べた話を見かけますが、同じ時期にそろって活動した事実はありません。晶子が亡くなったのは1942年、力道山のプロレスの人気が広がったのは1950年代です。比べて読むなら、時代が離れた別々の人物として扱う必要があります。

ゆかりの地と関連する人物

  • 大阪府堺市堺区:晶子の生誕地。老舗和菓子屋「駿河屋」があった
  • 東京・お茶の水:晶子らが1921年に文化学院を創設した場所
  • 東京都杉並区荻窪(現在の南荻窪):晶子が亡くなった自宅のあった地
  • 多磨霊園:晶子の墓所
  • 池上本門寺(東京都大田区):力道山の墓所。葬儀もここで行われた
  • 長崎県大村市の長安寺:百田家の墓所があり、力道山は分骨されている
  • 与謝野鉄幹:歌人で晶子の夫。1901年に結婚
  • 平塚らいてう:母性保護論争の相手
  • 木村政彦:「昭和の巌流島」で力道山と戦った
  • 沖識名:力道山がハワイで師事した人物

よくある質問

与謝野晶子と力道山は会ったことがありますか。

会った記録はありません。晶子は1942年5月に亡くなり、そのころ力道山は力士でした。プロレスの人気が広がるのは1950年代です。

与謝野晶子の死因は何ですか。

Wikipediaには、狭心症と尿毒症の併発とあります。1940年に脳出血で右半身が不自由になり、1942年1月に意識を失っていました。

力道山の死因は何ですか。

1963年12月8日に腹部を刺され、15日に再手術を受けた夜に亡くなりました。死因は穿孔性化膿性腹膜炎からの敗血症性ショックとされます。

与謝野晶子の子どもは何人ですか。

12人とされます。ただし出産が11回と書かれた記述もあり、数に食い違いがあります。

晶子は文化学院で何をしましたか。

1921年に創設に加わり、学監として女子教育にかかわりました。男女平等の教育を掲げ、1923年から男女共学を実現したとされます。