結論:歌碑は全国各地にあるが、「250基」という総数は公的資料では確かめられない
与謝野晶子の歌碑は、故郷の大阪府堺市から神奈川県鎌倉市、東京都杉並区まで各地に実在する。ただし「全国に250基以上」といった総数は、今回確かめた Wikipedia や自治体のページには載っていない。この記事では数字を断定せず、公的なページで場所と内容を確かめられた歌碑だけを取り上げる。
確かめられたのは、堺市の覚応寺の歌碑、鎌倉の高徳院(鎌倉大仏)の歌碑、杉並区の与謝野公園にある14基の歌碑である。晶子の歌碑を網羅的に調べたい人のために、Wikipedia には堺市博物館編『与謝野晶子歌碑めぐり:全国版』(1991年)と、与謝野晶子倶楽部の『新修版 与謝野晶子 歌碑・文学碑めぐり』が参考文献として挙がっている。総数や全リストを知りたいときは、まずこの2冊と、堺市の与謝野晶子記念館に当たるのが確実だ。
基本情報
- 生没年:1878年(明治11年)12月7日生まれ、1942年(昭和17年)5月29日没
- 時代:明治から昭和。大正期は文化学院の創設(1921年)など、教育にも関わった時期
- 立場:歌人。歌のほか、社会評論や古典研究でも活躍した
- 生家:堺県和泉国(現在の大阪府堺市堺区甲斐町)の老舗和菓子屋「駿河屋」
- 代表作:歌集『みだれ髪』(1901年)、詩「君死にたまふことなかれ」(1904年9月『明星』発表)、『新新訳源氏物語』(1938年10月から刊行、1939年9月完結)
- 夫:与謝野寛(鉄幹)。1935年3月に亡くなった
- 墓所:東京都の多磨霊園
与謝野晶子の歌碑はどこにある?確かめられた堺・鎌倉・荻窪の碑
堺:生家跡と覚応寺の歌碑
晶子の生家「駿河屋」があったのは、現在の堺市堺区甲斐町東一丁・西一丁にあたる場所だ。Wikipedia の注記によると、戦災復興事業で大道筋が広げられたため、駿河屋の跡地は現在、道路の上にある。
堺市の観光ページが歌碑の存在を明記しているのは、堺区九間町東の覚応寺だ。境内に晶子の歌碑がある。当時の住職だった河野鉄南は、文学仲間として晶子と鉄幹を引き合わせた人物とされる。毎年5月29日の晶子の命日には、覚応寺で「白桜忌」が開かれている。
なお、浜寺公園や開口神社に晶子の歌碑があるという紹介は、ネット上では見かける。だが今回、自治体のページで碑の存在を確かめられたのは覚応寺までで、浜寺公園・開口神社の歌碑は確認できなかった。これらの場所について、堺市の「堺ブランド桜『与謝野晶子』」のページには、植樹地として名前が出てくる。桜の植樹と歌碑は別物なので、混同しないようにしたい。
鎌倉:高徳院の「美男におはす」の歌碑
鎌倉大仏のある高徳院(鎌倉市長谷4-2-28)には、晶子の歌碑がある。国土交通省の観光多言語データベースの解説によると、建立は1952年4月で、大仏完成700周年の記念として建てられた。碑には晶子自身の筆跡をもとに、次の歌が刻まれている。
「かまくらや御ほとけなれど釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな」
石碑の右側にはローマ字表記と英訳、建立の経緯が英語で記されている。この歌は、晶子を含む3人の女性歌人の作品を集めた歌集『恋衣』から取られたものだ。同じ解説は、歌が仏を阿弥陀ではなく釈迦牟尼と呼んでいる点にも触れている。初期の文献から、この大仏は当初釈迦を表すものとして造られ、後に阿弥陀と見なされるようになったと考えられているという。
この歌は「美男におわす」と書かれて紹介されることもあるが、今回確かめた碑文の表記は、国土交通省の資料にある「美男におはす」である。
荻窪:与謝野公園の14基
杉並区の与謝野公園(南荻窪)は、晩年の晶子と鉄幹が暮らした家の跡地にある。Wikipedia によれば、公園は1982年3月20日に南荻窪中央公園として開園し、地元の要望を受けて隣接地を取得したうえで、2012年4月28日に「与謝野公園」として再整備・開園した。公園の造りは夫妻が暮らした当時の庭をモデルにしており、入口には門柱が立ち、玄関があった位置へ続く通路がある。
園内には、夫妻の短歌を刻んだ歌碑が14基ある。歌は歌人の松平盟子らが選んだと記されているが、参照した公的ページに個々の歌の文面は載っていないため、ここでは引用しない。現地の案内板か、杉並区の資料で確かめてほしい。
歌碑の数と「定説」の見分け方:数字・表記が割れる理由
「250基」「27基」といった数字はどこまで確かか
晶子の歌碑について、ネット上には「全国に250基以上」「京都だけで27基」といった数字が出回っている。だが今回確かめた Wikipedia・堺市・杉並区・国土交通省のページには、こうした総数や府県別の数は書かれていなかった。確かめられた数字は、与謝野公園の「14基」だけだ。
歌碑は、自治体だけでなく、地元の有志や団体が建てることも多い。建立主が多様な碑は、登録先がひとつにまとまらず、総数を数えにくい。そのため、本で調べるのが現実的な方法になる。ここでは「250基」を事実として扱わず、「確認できない数字」とした。
同じ地名でも、碑・像・桜は別物
晶子の足跡をたどるとき、混同しやすいものが3つある。ひとつは歌碑、ひとつは像、もうひとつは桜の植樹だ。
- 歌碑:歌や文章を石に刻んだもの。覚応寺、高徳院、与謝野公園のように、所在と内容を確かめられるものがある
- 像:1998年(平成10年)5月、生誕120周年を記念して、南海本線堺駅西口駅前広場に銅像が建てられた(Wikipedia)
- 桜:晶子は桜を特に愛し、与謝野家の家紋は桜をかたどったものだった。堺市が大仙公園で育てた新品種の堺ブランド桜「与謝野晶子」は、2018年2月20日付で日本花の会の品種認定を受けた。開口神社・浜寺公園・覚応寺などに植樹されている
碑の歌をたどると見える晶子の歩み
確かめられた碑の場所は、晶子の人生の節目とも重なる。堺は生まれ育った土地で、学んだ堺市立堺女学校は、現在の大阪府立泉陽高等学校にあたる。1900年(明治33年)には、浜寺公園の旅館で開かれた歌会で鉄幹と出会った、と Wikipedia は記す。翌1901年に歌集『みだれ髪』を刊行した。
1904年9月、晶子は日露戦争で旅順口の包囲軍にいた弟を案じる詩「君死にたまふことなかれ」を『明星』に発表した。この詩には大町桂月が批判を加え、晶子は『明星』11月号で反論している。ただ Wikipedia は、晶子が後年の作品では戦争を賛美する歌も作っており、評価に一貫性がないという指摘があることも伝える。有名な詩の背景は、一面的に語れないということだ。
鎌倉の碑は1952年、晶子の没後10年の年に建てられた。刻まれた文字は、晶子自身の筆跡をもとにしている。
ゆかりの地と関連する人物
さかい利晶の杜・与謝野晶子記念館(堺市)
堺市の「さかい利晶の杜」は、千利休と与謝野晶子を紹介する施設で、与謝野晶子記念館が併設されている。Wikipedia は、堺市立文化館与謝野晶子文芸館から移転した施設と説明する。杉並区の特別展にも、堺市博物館(さかい利晶の杜 与謝野晶子記念館)が特別協力している。
与謝野公園・旧居跡(杉並区)
杉並区の案内板によれば、1927年(昭和2年)に夫妻は麹町区富士見町から、震災の被害が少なかった郊外の井荻村(現在の荻窪周辺)へ移り、1942年まで暮らした。1923年の関東大震災では、晶子が文化学院に預けていた『源氏物語講義』の原稿を焼失している。荻窪の家では歌会を開き、歌誌「冬柏」を編集した。敷地には大正期に建てられた「采花荘」と「遙青書屋」の2棟があり、弟子から贈られた「冬柏亭」は茶室や書斎として使われた。
1935年3月26日、鉄幹は旅先の風邪から肺炎になり、入院先で62歳で亡くなった。晶子は鉄幹が生前に頼まれていた桃井第二小学校の校歌の作詞を、1936〜37年頃に手がけた。関係資料は杉並区有形文化財に指定されている。1939年には『新新訳源氏物語』を完成させた。
杉並区立郷土博物館では、2026年9月19日から11月23日まで、特別展「与謝野晶子の杉並時代」が開かれている。杉並に移り住んでから、2027年で100年になる。
多磨霊園と晶子の最期
1942年5月29日、晶子は荻窪の自宅で亡くなった。杉並区は脳溢血で療養していて余病を併発したと説明し、Wikipedia は狭心症に尿毒症を併発したと書く。いずれにしても、1940年5月に脳出血で右半身不随となってからの療養の末だった。墓所は東京都の多磨霊園にある。葬儀は6月1日に青山斎場で営まれ、高村光太郎が弔辞を、堀口大學が挽歌を読んだ。
関連する人物
- 与謝野寛(鉄幹):夫。1901年から1935年まで連れ添った。文化学院の創設にも加わった
- 河野鉄南:覚応寺の住職。晶子と鉄幹を引き合わせたとされる
- 西村伊作・石井柏亭:1921年、文化学院を鉄幹・晶子とともに創設した
よくある質問
与謝野晶子の歌碑は全国に何基ありますか?
公的なページでは総数を確かめられませんでした。確認できたのは、杉並区の与謝野公園の14基など個別の碑です。全国版の一覧は、堺市博物館編『与謝野晶子歌碑めぐり:全国版』などの文献が手がかりになります。
鎌倉大仏の歌碑には何と刻まれていますか?
国土交通省の資料では「かまくらや御ほとけなれど釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな 晶子」とされています。1952年4月、大仏完成700周年を記念し、晶子の筆跡をもとに建てられました。所在地は鎌倉市長谷4-2-28の高徳院です。
堺で歌碑を確かめられる場所はどこですか?
堺市の観光ページが歌碑の存在を明記しているのは、堺区九間町東の覚応寺です。毎年5月29日の命日には、ここで白桜忌が開かれています。生家跡は大道筋の拡幅で道路になっています。
晶子はどこで亡くなり、墓はどこですか?
1942年5月29日、荻窪の自宅で亡くなりました。墓所は東京都の多磨霊園です。荻窪の旧居跡は、現在、与謝野公園として整備されています。
「君死にたまふことなかれ」はいつ発表されましたか?
1904年9月に『明星』で発表されました。日露戦争で旅順口の包囲軍にいた弟を案じた詩で、大町桂月の批判を受け、晶子は同年11月号で反論しています。



