宮沢賢治

結論:「雨ニモマケズ」は発表のためでなく、病床の手帳に書かれた言葉

「雨ニモマケズ」は、宮沢賢治が1931年(昭和6年)11月、病に伏していた花巻の実家で、黒い手帳に鉛筆で書きつけた作品です。手帳の冒頭ページ上部には青鉛筆で「11.3.」という書き込みがあり、そこから11月3日の執筆と推定されています。人に読ませるために清書された詩ではなく、没後に手帳が見つかって初めて世に出ました。

手帳が見つかったのは1934年(昭和9年)2月16日。賢治の弟・清六が持参した革トランクのポケットから取り出されました。同年9月21日(賢治の一周忌にあたる日)には『岩手日報』夕刊に「遺作(最後のノートから)」として載り、その後、1936年に『人類の進歩につくした人々』に収められるなど、広く読まれるようになります。

この記事では、手帳の発見の経緯、詩の中の「玄米四合」や「デクノボー」の読み方、モデル説、そして詩が現代まで読み継がれてきた道筋を、Wikipedia に書かれた範囲の事実で整理します。

基本情報

  • 人物:宮沢賢治(詩人・童話作家)
  • 生年月日:1896年(明治29年)8月27日(戸籍上は8月1日)、岩手県稗貫郡花巻川口町(現・花巻市)
  • 没年月日:1933年(昭和8年)9月21日、急性肺炎のため満37歳で死去
  • 時代:明治末から大正・昭和初期
  • 経歴:盛岡高等農林学校を卒業後、1921年12月に稗貫農学校(のちの花巻農学校)の教諭となり、1926年3月に退職。同年4月に「羅須地人協会」を設立
  • 主な作品:詩集『春と修羅』(1924年)、童話集『注文の多い料理店』(1924年)、『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』など
  • 「雨ニモマケズ」:1931年11月、「雨ニモマケズ手帳」(全166ページ)の51〜59ページに記された

宮沢賢治の雨ニモマケズが生まれた背景と手帳の発見

1931年の病床で書かれた手帳のメモ

賢治は1928年8月に高熱で倒れ、両側肺浸潤と診断されて実家で療養に入りました。その後いったん回復し、1931年2月からは東北砕石工場の技師として働きます。ところが同年9月、仕事で上京した先で再び発熱して倒れ、遺書を書いたとされています。花巻の実家に戻った賢治は、また闘病の日々に入りました。

「雨ニモマケズ」は、この闘病の時期に書かれました。使われたのは、「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれる黒い手帳でした。鉛筆で書かれ、書きながら言葉を直した跡も残っています。たとえば「ヨクワカリ」を「ヨクミキキシワカリ」に改めた箇所があり、推敲の途中の姿がうかがえます。完成した作品というより、書いては直す思索の記録でした。

弟・清六が持ち込んだ手帳と「発見」の日

手帳が人の目に触れたのは、賢治の死の翌年、1934年2月16日です。新宿で開かれた「宮沢賢治友の会」の席で、清六が持参した革トランクのポケットから手帳が取り出され、出席者の間で回覧されたと伝えられています。

発見は賢治の死去から約5か月後の1934年2月でした。同年9月21日に『岩手日報』夕刊が「遺作(最後のノートから)」として掲載し、1936年7月には『人類の進歩につくした人々』、1939年には『風の又三郎』に収められて、広く読まれるようになりました。

手帳の別のページに残された題目

詩が終わる59ページの向かい、60ページには、次のような題目が書かれています。

  • 南無無辺行菩薩
  • 南無上行菩薩
  • 南無多宝如来
  • 南無妙法蓮華経
  • 南無釈迦牟尼仏
  • 南無浄行菩薩
  • 南無安立行菩薩

中央の「南無妙法蓮華経」は、ほかの行より少し大きな字で書かれています。詩と同じ見開きに法華経に関わる言葉が並んでいるため、詩を信仰と結びつけて読む手がかりとされています。

玄米四合・デクノボー・東西南北の看病:詩を読み解く

「玄米四合」は多いのか

詩の中の「玄米四合」は、現代の感覚では大食に見えます。Wikipedia は、現代より米を多く食べた戦前の労働者の食習慣と比べれば、特別に多い量ではないとされる、と紹介しています。

この一句には後日談があります。1947年の国定教科書では、GHQ側の係官が「玄米三合」に変えることを条件に掲載を許可したとされます。同じ年、高村光太郎は「玄米四合の問題」(『農民芸術』)でこの一句に触れ、栄養過少への懸念を述べたと、中村稔の言及を通じて伝えられています。たった一つの数字が、戦後すぐに議論になるほど、読者の印象に残る句だったことが分かります。

「デクノボー」と法華経の常不軽菩薩

「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ」の句は、法華経に出てくる常不軽菩薩の精神を表すと指摘されています。詩のすぐ隣のページに法華経に関わる題目が書かれていることは、前述のとおりです。

詩には「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ」と、方角ごとに出かけていく行いが並びます。

「ヒデリ」か「ヒドリ」か

詩の本文にも研究上の争点があります。手帳の原文は「ヒドリノトキハ……」と読めますが、初出などでは「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」とされ、全集でも「ヒデリ」に校訂されてきました。入沢康夫が誤記説の根拠を示し、研究者の間では「ヒデリ」への校訂が定着しています。一方で、方言だとする見解も一部にあります。さらに手帳には「諸仏ニ報ジマツマント」と、正しくは「報ジマツラント」とすべき誤記もそのまま残っています。手帳が完成稿ではなく、病床の覚え書きであることを物語る細部です。

東北の寒さを詠んだ一行

「サムサノナツハオロオロアルキ」の句は、夏の低温に苦しんだ東北の農村を背景にしています。賢治は農学校の教員を務め、羅須地人協会では農業や肥料の講習を行った人物でした。農学の知識をもって農家と接した経験が、この句の実感を支えていると考えられます。

「雨ニモマケズ」論争とモデル説:知られざる受け止められ方

1963年の「雨ニモマケズ」論争

この詩は、いつも称賛されてきたわけではありません。1963年、谷川徹三は本作を高く評価しました。これに対し、詩人の中村稔は「ふと書き落とした過失のように思われる」と否定的に評し、両者の反論で論争が表面化しました。中村は2012年に、あれは「不毛な論争だった」と述べています。

手帳に鉛筆で書かれたメモを、完成した詩作品として評価の土俵に載せてよいのか。この問いがあったことは、詩の成り立ちを知るうえで大切な視点です。

斎藤宗次郎モデル説

詩の人物像のモデルとして、花巻出身のキリスト教徒・斎藤宗次郎の名が挙がることがあります。斎藤は1877年(明治10年)に現在の花巻市に生まれ、内村鑑三の「最も忠実な弟子の一人」でした。小学校教員でしたが、日露戦争のときに非戦論を唱えたことで県当局からにらまれ、職を失ったとされます。のちに新聞取次店を営み、清貧の生活を送りました。

賢治とは同郷で、宗派を超えた交流がありました。斎藤の1924年の日記には、花巻農学校の賢治に招かれて蓄音機で音楽を聴いたことや、「永訣の朝」らしきゲラ刷りを見せられたことが記されています。

ただし、モデル説は「一部にある」という位置づけです。賢治研究者の栗原敦は、この詩には賢治自身の嘆きや弱さがにじんでおり、安易に斎藤に重ねると斎藤独自の強固な信仰を見逃すおそれがある、と指摘しています。モデルが誰かを断定するより、賢治自身の願いとして読むのが、資料に沿った読み方といえます。

広がった詩碑と海外での朗読

1936年11月21日、花巻市の羅須地人協会跡に詩碑が建てられました。賢治の作品として最初の文学碑です。碑文は詩の後半部分で、高村光太郎が揮毫しました。一部に脱漏があることが分かり、1946年11月3日に高村自身が訂正を揮毫して、追刻されました。

2011年4月11日には、ワシントンのナショナル大聖堂で行われた東日本大震災の犠牲者追悼式で、この詩が英語で朗読されました。同じ4月には、香港のチャリティコンサートのテーマソングに「無懼風雨」として使われています。また冨田勲の『イーハトーヴ交響曲』(2012年初演)の第6楽章は、本作を歌詞にしています。棟方志功の板画や、1958年の東宝の伝記映画の題名にも、この詩の言葉が用いられました。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 羅須地人協会跡(花巻市):1936年に「雨ニモマケズ」の詩碑が建てられた場所。毎年9月21日には、賢治を偲ぶ「賢治祭」が行われます。2020年・2021年は中止され、2022年に再開されました
  • 花巻市立宮沢賢治記念館(花巻市矢沢の胡四王山):1982年開館。賢治の生涯や作品を紹介しています。展示内容は、訪れる前に公式の案内で確かめてください
  • 身照寺(花巻市):賢治の墓所。死後は、葬儀が営まれた安浄寺にいったん埋葬されていました

関連する人物

  • 宮沢清六:賢治の弟。1934年2月、手帳が入っていたトランクを友の会に持参した
  • 高村光太郎:詩碑の碑文を揮毫し、「玄米四合の問題」でこの一句を論じた
  • 斎藤宗次郎:内村鑑三の弟子。賢治と交流があり、モデル説で名前が挙がる
  • 宮沢トシ:賢治の妹。1922年に24歳で亡くなった

よくある質問

「雨ニモマケズ」はいつ書かれたのですか。

1931年11月、賢治が35歳のころ、病床の手帳に書かれました。手帳の冒頭ページ上部にある青鉛筆の「11.3.」から、11月3日の執筆と推定されています。

誰が手帳を見つけたのですか。

1934年2月16日、新宿の「宮沢賢治友の会」の席で、弟の清六が持参した革トランクのポケットから取り出されました。賢治の死後約5か月のことです。

「玄米四合」は今も変わらず四合ですか。

手帳の原文は四合ですが、1947年の国定教科書ではGHQ側の係官の要請で「玄米三合」に改められました。

モデルは斎藤宗次郎なのですか。

一部にモデル説はありますが、確定した事実ではありません。研究者の栗原敦は、安易に斎藤に重ねることに慎重な立場を示しています。

賢治は生前にこの詩を発表しましたか。

発表していません。手帳に書かれたメモで、1934年に手帳が見つかり、同年9月に『岩手日報』夕刊に掲載されて初めて公になりました。