結論:生家は花巻市豊沢町、古着屋兼質屋の商家。賢治存命時の建物は残っていない
宮沢賢治の生家があった場所は、略年譜では岩手県稗貫郡里川口村川口町303番地とされ、現在の住所は花巻市豊沢町4丁目11番地にあたります。宮沢家は古着屋と質屋を営む商家でした。賢治が暮らした当時の建物は現存しません。
1945年8月の花巻空襲で生家は被災し、保管されていた原稿や遺品の一部が焼失・焼損しました。ただし原稿の大半は焼け残り、戦後に刊行されています。
賢治は家業を嫌い、父と宗教をめぐって衝突を重ねながら、最後は実家で病床に就き、その生家で生涯を閉じました。生家は、賢治の悩みと作品の行方の両方に関わる場所です。
基本情報
- 人物:宮沢賢治(詩人・童話作家)
- 生年月日:1896年(明治29年)8月27日(戸籍上は8月1日。27日と推定されている)
- 没年月日:1933年(昭和8年)9月21日、急性肺炎のため満37歳で死去
- 時代:明治〜昭和初期(活動の中心は大正時代)
- 家業:古着屋兼質屋
- 家族:父・政次郎、母・イチ、妹・トシ、弟・清六
- 生家の所在地:現・花巻市豊沢町4丁目11番地(略年譜による)
宮沢賢治の生家と家族:質屋・古着商の家に生まれて
生家の場所と、生まれた家は別だった
賢治の出生地については、少し注意が必要です。Wikipedia によれば、賢治が生まれたのは母イチの実家である鍛冶町の宮澤善治家でした。出生の5日後の8月31日には陸羽地震が起きています。父の政次郎は旅行中で、政次郎の弟・治三郎が「賢治」と名付けたと伝えられています。
つまり「生家」という言葉は、生まれた場所というより、賢治が育った宮沢家の家を指して使われています。略年譜に記された川口町303番地がその家で、いまの豊沢町4丁目にあたります。
祖父が興した古着屋兼質屋
宮沢家の家業は、祖父の喜助が呉服屋「宮右」から分家して始めた古着屋兼質屋です。この店は「宮右かまど」と呼ばれました。父の政次郎は17歳頃から古着などを仕入れ、店での販売と卸売を行いました。株式投資でも成功し、小作地を持つようにもなったと記されています。
賢治はこの古着屋を嫌い、将来を悲観したとされます。のちに弟の清六が「宮沢商会」を開き、古着商から金物や建材を扱う商いに転じました。清六の宮沢商会は1926年5月に開業し、1942年まで続いています。
家族と少年時代
賢治は1903年4月に花巻川口尋常小学校へ入学し、1909年4月に岩手県立盛岡中学校に進んで寄宿舎の自彊寮に入りました。1914年3月に卒業しています。
鉱物や昆虫の採集に熱中した少年で、11歳頃には家族から「石ッコ賢さん」と呼ばれたと記されています(Wikipedia の別の節では「石コ賢さん」の表記もあり、表記に揺れがあります)。
家族の生没年は次のとおりです。
- 父・政次郎:1874年2月23日〜1957年12月1日。花巻仏教会を主催し、藍綬褒章を受章
- 母・イチ:1877年1月15日〜1963年6月30日
- 妹・トシ:1898年11月5日〜1922年11月27日(24歳)
- 弟・清六:1904年4月1日〜2001年6月12日
生家での葛藤:父との対立、トシの死、実家を出た賢治
浄土真宗の父と、法華経に傾く賢治
父の政次郎は浄土真宗の門徒でした。賢治はその父を日蓮主義へ改宗させようとして、激しい口論を繰り返したと記されています。
1921年1月23日の夕方、賢治は東京行きの汽車に乗って家出します。翌朝上野に着き、国柱会館を訪ね、父の知人・小林六太郎の家に身を寄せました。その後は本郷菊坂町に下宿し、東大赤門前の謄写版印刷所「文信社」に勤めています。
トシの病気と帰郷
同じ1921年の8月か9月、賢治は「トシビョウキスグカエレ」という電報を受け取り、原稿を持って花巻に戻りました。帰郷の時期は資料によって食い違いがあります。同年12月3日には稗貫農学校(のちの花巻農学校)の教諭になりました。
トシは結核で病臥し、1922年11月27日午後8時30分に24歳で亡くなりました。この時期に書かれた詩が、詩集『春と修羅』に収められた「永訣の朝」です。
実家を出て下根子桜へ
1926年3月31日、賢治は花巻農学校を依願退職します。同年4月には実家を出て、下根子桜の別宅に移り、改装して住みました。実家から約1.5km離れた場所です。周囲を開墾して畑と花壇を作り、白菜、とうもろこし、トマトなどを育て、リヤカーで野菜を売り歩いたと記されています。
この別宅で、賢治は羅須地人協会の活動を始めました。設立は1926年夏とされ、旧盆にあたる8月16日が設立日とされています。農作業のほか、11月29日からの農民講座、レコード鑑賞会、童話の朗読会、肥料設計の指導などが行われました。
協会の終わりと、実家での病臥
1927年2月1日に『岩手日報』で活動が紹介されると、社会主義教育を行っているという風評が立ち、賢治は警察の聴取を受けました。その後、集会は不定期になっていきます。
1928年8月10日、賢治は高熱で倒れ、花巻病院で両側肺浸潤と診断されます。以後は実家で病臥の生活になりました。独居生活と協会の活動は再開されないまま終わっています。
下根子桜の別宅は、賢治の没後に人手に渡って移築されましたが、1969年に花巻農業高校の用地の一部として買い取られ、復元整備されて「賢治先生の家」として公開されています。別宅のあった桜町の跡地には、「雨ニモマケズ」の詩碑が立っています。
花巻空襲と遺稿:生家で何が守られ、何が失われたか
最期の日と、父への頼み
1933年9月21日、賢治は午前11時半頃に喀血し、午後1時半に急性肺炎で亡くなりました。満37歳でした。喀血の後、賢治は父に国訳の妙法蓮華経を「一千部つくってください」と頼んだと記されています。
死の前夜には、弟の清六に「この原稿はみなおまえにやるから、もし小さな本屋からでも出したいところがあったら出してもいい」と話したとされます。戒名は「真金院三不日賢善男子」、葬儀は安浄寺で営まれました。
1945年8月の花巻空襲
清六の項には、1945年8月の花巻空襲で宮澤家の家屋が焼失したと書かれています。賢治の項には、この空襲で生家が被災し、原稿や遺品の一部が焼失・焼損したものの、大半の原稿は焼け残り、戦後に筑摩書房などから刊行されたとあります。
清六は、託された遺稿の保存と整理に長く尽力しました。賢治の死の翌年(1934年)には、最初の宮澤賢治全集(文圃堂)の刊行にこぎつけています。希望する研究者には遺稿を開示していたとされ、1981年に遺稿を花巻市に寄贈しました。現在は宮沢賢治記念館に収蔵されています。
土蔵から見つかった草稿
生家の土蔵は、その後も話題になりました。2009年4月、生家の土蔵から未発表の詩の草稿1枚(地形図の裏に書かれたもの)が見つかったと公表され、『新校本宮澤賢治全集』別巻に収録されています。
なお、この土蔵が「五葉蔵」と呼ばれたことや、空襲の際に原稿をそっくり守ったという話は、今回確かめた Wikipedia の記述には見当たらなかったため、ここでは扱いません。
高村光太郎を迎えた宮澤家
1945年5月、清六は東京大空襲で焼け出された高村光太郎を自宅に招き入れました。賢治とのつながりによるものです。戦後、高村は花巻郊外の太田村山口の小屋(高村山荘)に移り、清六はその間も差し入れを続けたと記されています。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 生家跡(花巻市豊沢町):賢治存命時の建物は現存しません。略年譜の現住所は豊沢町4丁目11番地
- 賢治先生の家(花巻農業高校内):下根子桜の別宅を復元整備して公開
- 桜町の旧宅跡:「雨ニモマケズ」の詩碑が立つ
- 花巻市立宮沢賢治記念館(花巻市矢沢の胡四王山):1982年開館。清六が寄贈した遺稿を収蔵
- 身照寺(花巻市):1951年に宮沢家が日蓮宗に改宗したのに伴い、墓所が移された
関連する人物
- 宮沢政次郎:父。花巻仏教会を主催し、浄土真宗の門徒だった
- 宮沢トシ:妹。1922年に24歳で死去
- 宮沢清六:弟。遺稿の保存と全集の刊行に尽力
- 高村光太郎:1945年に清六の自宅へ身を寄せた詩人・彫刻家
よくある質問
宮沢賢治の生家はどこにありますか?
花巻市豊沢町にありました。略年譜では現在の住所を豊沢町4丁目11番地としています。ただし賢治存命時の建物は現存しません。
生家の中は見学できますか?
今回確かめた資料では、生家の現在の公開状況や居住状況は確認できませんでした。見学を考えるときは、花巻市や宮沢賢治記念館など公的な窓口で最新の案内を確認してください。
賢治が羅須地人協会を開いた場所は、生家と同じですか?
違います。協会があったのは下根子桜(現・花巻市桜町)の宮沢家の別宅で、実家から約1.5km離れています。この建物は復元され、「賢治先生の家」として公開されています。
生家は空襲で全部焼けたのですか?
花巻空襲で宮澤家の家屋は焼失しました。しかし賢治の原稿の大半は焼け残り、戦後に刊行されています。土蔵からは、のちの2009年にも未発表の詩の草稿が見つかりました。



