結論:森鷗外の死因は萎縮腎と肺結核。大正11年7月9日、60歳で亡くなり、墓には「森林太郎ノ墓」とだけ刻まれた
1922年(大正11年)7月9日の午前7時過ぎ、森鷗外は東京で亡くなりました。満60歳です。死因は腎萎縮(萎縮腎)と肺結核とされています。6月29日に萎縮腎と診断されてから、わずか10日ほどの出来事でした。
鷗外は小説家であると同時に、陸軍軍医の最高位である軍医総監まで上りつめた人物です。それほどの経歴がありながら、遺言では「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と述べ、墓碑には階級も号も刻ませませんでした。この記事では、最期の経過、遺言と墓、代表作の背景、ゆかりの地を順に見ていきます。
基本情報
- 本名:森林太郎(「鷗外」は筆名)
- 生没年:文久2年1月19日(1862年2月17日)〜大正11年(1922年)7月9日、満60歳
- 時代:明治〜大正
- 生誕地:石見国津和野(現在の島根県津和野町)。津和野藩の典医の家に生まれた
- 立場:小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医。医学博士・文学博士
- 死因:萎縮腎、肺結核
- 代表作:「舞姫」(1890年)、「雁」(1911年)、「阿部一族」(1913年)、「山椒大夫」(1915年)、「高瀬舟」(1916年)、「渋江抽斎」(1916年)
森鷗外の死因と最期|遺言と墓所
診断から死去まで:6月29日〜7月9日
最期の病状が公式に確かめられるのは、亡くなる直前の数日間です。1922年6月29日、鷗外は萎縮腎と診断されました。診断から死去までは10日ほどで、病名がはっきりしてからの時間はごく短いものでした。
7月6日、鷗外は旧知の友人・賀古鶴所に遺言の代筆を頼みました。口述したのは、のちに有名になる「石見人森林太郎として死にたい」という趣旨の文です。自分の力で最期を整理しようとする姿が読み取れる一方、遺言の内容や状況の受け取り方については、研究者の間でも見方が分かれています。
9日の午前7時過ぎに亡くなりました。最期の言葉は「馬鹿馬鹿しい」だったと伝えられています。なお、7月8日には従二位に叙せられました。この叙位をめぐっては、大谷晃一が叙位への執着を疑問視した一方、志田信男は、鷗外が袴を着けていたのは叙位の使者を迎えるためだったと指摘しています。同じ場面でも、評者によって受け取り方が異なる例です。
遺言の内容:すべての肩書を退ける
遺言は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」で始まります。石見は生まれ故郷・津和野のある旧国名です。陸軍軍医総監、文学博士といった肩書をすべて脇に置き、一人の郷里の人間として死にたいと述べたわけです。墓碑には階級も号も刻まず、「森林太郎ノ墓」とだけ刻むよう指示しました。
墓所は三鷹の禅林寺と津和野の永明寺
鷗外はいったん東京・向島の弘福寺に葬られました。墓碑銘は中村不折の筆で、戒名は「貞献院殿文穆思斎大居士」です。その後、1927年に墓は三鷹市の禅林寺へ移されました。津和野町の永明寺にも分骨された墓があります。禅林寺には、鷗外を敬愛した太宰治が、希望どおり鷗外の墓のはす向かいに埋葬されています。
遺言は、軍と官の世界で高い地位を得た鷗外が、最後に何を選んだかを示す資料として語られてきました。ただし、遺言の真正性そのものに疑問を示す研究者もいます。そのため、遺言を鷗外の内面を示す記録として読むか、評価が割れる史料として読むかは、慎重に分けて考える必要があります。
森鷗外とはどんな人か|軍医と作家の二つの顔
津和野から東京へ、11歳で医学校に入る
鷗外は津和野藩の典医の家に生まれ、1872年に父とともに上京しました。ドイツ語を学び、1873年には第一大学区医学校予科に入学します。年齢を2歳多く偽って、満11歳10か月で入ったとされています。1881年に東京大学医学部を卒業し、同年12月に陸軍軍医副となりました。
ドイツ留学が「舞姫」を生んだ
1884年から1888年までドイツに留学し、ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンで学びました。帰国後の1889年に訳詩集「於母影」を発表し、雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動を本格化させます。1890年1月に発表された「舞姫」は、この留学の体験が背景にあります。モデルとなったドイツ人女性については、エリーゼ、アンナなど複数の説が紹介されています。
軍医としての昇進と、小倉への転勤
日清戦争(1894〜1895年)に出征し、その後は台湾に勤務しました。1899年には小倉の第12師団軍医部長に転勤します。この任は1902年まで続きました。1904年から1906年の日露戦争には第2軍軍医部長として出征し、1907年に陸軍軍医総監、陸軍省医務局長に就任します。1916年に医務局長を退き、予備役に編入されました。
晩年の作品と、史伝への移行
創作を一時離れていた鷗外は、1909年に雑誌『スバル』の創刊後に再び小説を書き始めます。この年には「ヰタ・セクスアリス」を発表しましたが、掲載した『スバル』は発売禁止となり、鷗外自身も陸軍次官から戒飭を受けました。1914年以降は家族の情を主題にした作品が増え、「高瀬舟」はその例に挙げられます。さらに晩年は「渋江抽斎」などの史伝を手がけました。ただし、史伝は読者や編集者の評判が必ずしも芳しくなかったとされています。
鷗外は、石橋忍月との「舞姫」をめぐる論争、坪内逍遥との没理想論争(1891年)など、文壇での論争にも積極的に関わりました。一方で、樋口一葉を激賞し、与謝野晶子や平塚らいてうを高く評価した批評家でもありました。自宅の観潮楼では1907年から1910年まで歌会が開かれ、与謝野鉄幹、伊藤左千夫、斎藤茂吉らが参加しています。
ゆかりの地と関連する人物
- 津和野町(島根県):生誕の地。鷗外の生家は「史跡森鷗外生家」として残っています。旧宅は髙津屋伊藤博石堂が建物と敷地を引き取り、のちに寄贈された経緯があります。
- 文京区立森鷗外記念館(東京都):2012年に開館。観潮楼の跡地に立ちます。観潮楼は1892年に千駄木に建てられ、1937年の借家人の失火で母屋の大部分が焼け、1945年の戦災で胸像などを除いて焼失しました。跡地は1950年に児童公園となり、東京都の史跡に指定されています。
- 北九州市小倉北区:小倉時代の旧居があります。鷗外橋とともに紹介されています。
- ベルリン:留学中の居室がそのまま保存・公開されている森鷗外記念館があります。
- 禅林寺(三鷹市)・永明寺(津和野町):墓所。禅林寺には太宰治の墓もあります。
同じ明治の文学者では、肺結核で亡くなった国木田独歩の最期を国木田独歩の死因と最期は?肺結核と『武蔵野』の背景で、幕末から明治への時代の変化を描いた小説は島崎藤村「夜明け前」のあらすじと歴史背景で、それぞれ読めます。作家の最期という点では、川端康成の死因を丁寧に整理した記事も参考になります。
よくある質問
森鷗外の死因は何ですか?
腎萎縮(萎縮腎)と肺結核とされています。1922年6月29日に萎縮腎と診断され、7月9日に満60歳で亡くなりました。
森鷗外の最期の言葉は何ですか?
「馬鹿馬鹿しい」だったと伝えられています。
墓にはなぜ「森林太郎ノ墓」としか書かれていないのですか?
遺言で「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と述べ、軍医総監などの肩書を墓に刻まないよう指示したためです。墓は三鷹市の禅林寺にあり、津和野町の永明寺にも分骨された墓があります。
森鷗外の代表作は何ですか?
「舞姫」(1890年)、「雁」、「阿部一族」、「山椒大夫」、「高瀬舟」、「渋江抽斎」などがあります。「舞姫」はドイツ留学の体験が背景にある作品です。
森鷗外は医者でもあったのですか?
はい。東京大学医学部を卒業した陸軍軍医で、最終的に陸軍軍医総監、陸軍省医務局長を務めました。医学博士でもあり、文学博士の学位も得ています。





