結論:吉田茂は憲法公布から独立回復まで、戦後の土台づくりの中心にいた首相
吉田茂は、敗戦後の1946年から1954年にかけて通算5回、内閣総理大臣を務めた政治家です。在任は合計2616日にのぼります。この間に、日本国憲法の公布(1946年11月3日)、サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約への署名(1951年9月8日)、警察予備隊の発足(1950年)などが重なりました。
ただし、これらのすべてが吉田の発案だったわけではありません。農地改革や警察予備隊のようにGHQ(連合国軍総司令部)の指示が出発点になったものもあれば、平和条約と日米安保条約の署名のように吉田が全権として前面に立ったものもあります。この記事では「吉田が実際に何をしたか」と「誰の意向が動いたか」を分けて整理します。
基本情報
- 生没年:1878年(明治11年)9月22日〜1967年(昭和42年)10月20日(89歳)
- 時代:明治〜昭和時代。首相としての活躍は昭和時代の占領期から独立後
- 立場:外交官、政治家。第45代、第48〜51代の内閣総理大臣
- 首相在任:第1次は1946年5月22日〜1947年5月24日、第2〜5次は1948年10月15日〜1954年12月10日
- 主な業績:日本国憲法の公布時の首相、サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約への署名、保安庁の発足と自衛隊発足期の政権運営
- 墓所:横浜市の久保山墓地(2011年に青山霊園から改葬)
吉田茂がやったこと:首相として関わった主な出来事
外交官から首相へ
吉田は1906年に東京帝国大学を卒業し、同じ年に外務省へ入りました。1928年7月には田中義一内閣で外務次官となり、1936年から1939年までは駐英大使を務めています。政治家としての出発点は、敗戦直後の1945年9月17日、東久邇宮内閣の外務大臣に就任したことでした。
首相になったのは1946年5月22日です。生まれは東京ですが、実父は竹内綱で、のちに吉田健三の養子となりました。妻の父は牧野伸顕です。官僚として外交の現場を長く見てきた人物が、占領下の政府を率いることになりました。
日本国憲法の公布と教育関連の法律
日本国憲法が公布されたのは1946年11月3日、施行は1947年5月3日です。公布時の首相は吉田で、憲法に署名者として名を連ねています。公布に先立つ10月31日には、吉田が天皇に上奏して上諭(公布文)の裁可を得ました。
1947年3月31日には、教育基本法と学校教育法が公布・施行されました。同じ時期、4月7日には労働基準法も公布・施行されています。いずれも第1次吉田内閣の期間に当たります。
ここで押さえておきたいのは、憲法の草案づくりはGHQとの折衝の中で進んだという点です。吉田は「政府の責任者」として公布まで事務を進めた立場であり、内容をひとりで決めたわけではありません。
傾斜生産方式と農地改革
傾斜生産方式は、限られた資材と資金を石炭などの基幹部門に集中させる政策です。考えたのは経済学者の有沢広巳で、吉田首相の私的なブレーン組織「昼めし会」のメンバーでした。第1次吉田内閣は、1946年12月27日に基礎物資の需給計画を閣議決定し、「国内施策の一切を石炭の増産に集中する」方針を打ち出しました。この政策は、のちの片山内閣・芦田内閣にも引き継がれています。
資金面では、1947年1月に復興金融金庫が開業しました。財源の大部分は日本銀行の債券引受に頼ったため、インフレを招く面もありました。1949年に新規融資が止まり、1951年に解散しています。
農地改革は、GHQの指示を受けた第二次農地改革が1946年10月に成立しました。吉田内閣の期間にあたりますが、方針の出発点はGHQです。1947年3月31日から農地の買上げ・払下げが始まり、1950年7月まで16回に分けて実施されました。約193万町歩の農地を237万人の地主から買い上げ、475万人の小作人に渡した結果、小作地の割合は46%から10%に下がりました。
平和条約と日米安保条約:吉田茂が前面に立った講和の場面
サンフランシスコ平和条約の署名
1951年9月8日、サンフランシスコのウォーメモリアル・オペラ・ハウスで平和条約の署名が行われました。会議には52か国の代表が参加し、署名したのは49か国です。ソ連、ポーランド、チェコスロバキアは会議に出席しながら署名せず、インド、ビルマ、ユーゴスラビアは会議に参加しませんでした。
日本の全権団は6人で、首席全権が吉田です。ほかに蔵相の池田勇人、日本銀行総裁の一万田尚登らが加わりました。吉田は前日の9月7日に受諾演説を行っています。当初は英語で行う予定が直前に日本語に変更され、長い巻物状の原稿は現地のメディアに「トイレットペーパー」と揶揄されたとも伝えられます。条約は1952年4月28日に発効し、日本は占領を終えました。
日米安全保障条約への単独署名
平和条約と同じ9月8日、サンフランシスコ・プレシディオ内の下士官集会所で、日米安全保障条約が署名されました。署名したのは吉田ひとりです。同行した池田勇人について、吉田は「君の経歴に傷が付くといけない」として署名の場に同席させなかったとされます。条約の責任を自分ひとりで背負う形をとった、というエピソードです。
警察予備隊から自衛隊へ
1950年7月8日、マッカーサーは吉田首相あての書簡で、約7万5千人の警察予備隊の創設を求めました。朝鮮戦争で在日米軍が出動し、国内の治安を守る兵力が足りなくなったことが背景です。同年8月10日に警察予備隊令が公布され、8月13日から10月12日にかけて隊員を募集し、7万4千人余りが入校しました。
つまり警察予備隊は、吉田が自発的に構想したものではなく、マッカーサー書簡に応じて発足した組織です。装備の面では、吉田は自前の調達をひとまず諦め、国連軍から貸与を受ける形にして、再軍備への批判をかわしたとされます。
平和条約の発効後、1952年8月1日に保安庁が発足し、吉田は長官を兼ねました。10月15日に保安隊が発足して警察予備隊は廃止され、1954年7月1日の自衛隊法の施行で保安隊は自衛隊に改組されています。
吉田学校・バカヤロー解散と退陣:長期政権の内側
吉田学校とは
吉田学校は、吉田が自らの政権を支える人材を集めた国会議員のグループを指す呼び名です。吉田は、戦後改革を進める忠実な部下が党内に少なく、党人派の政策立案力にも不信感を持っていたと説明されています。そこで1949年1月の第24回総選挙で、各省庁の優秀な後輩官僚を候補者に立てました。
門下生として知られるのは、首相になった池田勇人、佐藤栄作らです。吉田自身は「授業料を取っていないので生徒が何人かわからない」と冗談めかして語ったと伝わります。1956年の保守合同後、池田派は「宏池会」、佐藤派は「周山会」となり、旧吉田派は事実上二つに分かれました。
バカヤロー解散の経緯
1953年2月28日、衆議院予算委員会で、吉田は社会党右派の西村栄一議員と質疑を交わす中で、小声で「ばかやろう」と口にしました。マイクがその声を拾い、西村が追及したため騒ぎが広がり、吉田は発言を取り消しています。
ただし、発言がそのまま解散につながったわけではありません。3月2日に吉田を懲罰委員会へ付託する動議が可決され、3月14日には自由党の鳩山派30余名が脱党して内閣不信任案に賛成し、案は可決されました。吉田は同じ日に衆議院を解散します。背景には、通産大臣の池田勇人が度重なる問題発言で不信任決議を受けたことがあったとされています。4月19日の総選挙で自由党は大敗し、少数与党に転落しました。
退陣とその後
1954年12月7日、吉田内閣は総辞職しました。造船疑獄をめぐる事情が背景にあったとされます。吉田は1963年10月に政界を引退し、1964年に大勲位菊花大綬章を受けました。
1967年10月20日、神奈川県大磯の自邸で亡くなりました。10月22日に死後洗礼を受け、23日には東京カテドラル聖マリア大聖堂で密葬が営まれ、31日には日本武道館で戦後初の国葬が行われています。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 大磯(神奈川県):晩年を過ごし、亡くなった自邸があった土地
- 久保山墓地(横浜市):墓所。青山霊園に置かれていましたが、2011年に改葬されました
- サンフランシスコ:平和条約が署名されたウォーメモリアル・オペラ・ハウスと、安保条約が署名された下士官集会所があります
関連する人物
- 池田勇人:蔵相として平和条約の全権団に加わり、のちに首相となった吉田学校の代表格
- 佐藤栄作:吉田学校から出て首相となった人物
- マッカーサー:連合国軍最高司令官。警察予備隊の創設を求める書簡を吉田に宛てました
- 牧野伸顕:吉田の妻の父
- 有沢広巳:傾斜生産方式を考えた経済学者
よくある質問
吉田茂が首相として一番大きな仕事は何ですか。
1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約へ署名し、翌1952年4月28日の発効で占領を終わらせたことです。同じ日に日米安全保障条約へも単独で署名しました。
警察予備隊は吉田茂が作ったのですか。
1950年7月8日にマッカーサーが吉田首相あての書簡で創設を求め、8月10日に警察予備隊令が公布されました。出発点はGHQの要求です。吉田は首相として実施にあたりました。
バカヤロー解散は失言だけが原因ですか。
失言は発端ですが、解散の直接の引き金は、3月14日に鳩山派30余名が脱党して不信任案が可決されたことです。池田通産相への不信任決議なども遠因とされます。
吉田学校には誰がいましたか。
首相になった池田勇人や佐藤栄作が代表的です。官僚出身の議員が多く、1949年の総選挙で当選した人々が中核になったとされます。
吉田茂は何歳で亡くなりましたか。
1967年10月20日、89歳で亡くなりました。10月31日には日本武道館で戦後初の国葬が行われています。





