結論:野口英世青春館は、野口が書生として医学の基礎を学んだ旧会陽医院の建物
野口英世青春館は、福島県会津若松市中町にある施設です。建物は1884年(明治17年)に建てられ、のちに渡部鼎が会陽医院として使いました。野口英世は1893年3月からこの医院に住み込みの書生として入り、約3年、医学の基礎を学びました。
1階は喫茶店「會津壹番館」で、野口英世に関する資料を並べた展示は2階にあります。展示は約100点とされています。建物は1997年に、会津若松市の歴史的景観指定建造物になりました。
この記事では、野口が左手の手術を受けてから上京するまでの会津での日々と、建物の来歴、見学の前に知っておきたいことを順に説明します。
基本情報
- 人物:野口英世(幼名は清作)。1876年(明治9年)11月9日、福島県耶麻郡三ッ和村(現・猪苗代町)に生まれる
- 没年:1928年(昭和3年)5月21日、英領ゴールド・コースト(現・ガーナ)のアクラで死去。黄熱病の研究のために現地に滞在中だった
- 時代:明治から昭和初期(この記事で扱う会津での書生時代は明治)
- 立場:細菌学者。1900年にアメリカへ渡り、ペンシルベニア大学医学部の助手となった
- 施設:野口英世青春館(1階は喫茶店「會津壹番館」、2階は野口英世の展示)
- 所在地:福島県会津若松市中町4-18
- 建物:1884年築。2階建てで、前面は蔵造り、後ろ側は木造。寄棟屋根
野口英世青春館に残る書生時代と、旧会陽医院の歩み
左手の手術と渡部鼎との出会い
野口は1歳だった1878年4月、囲炉裏で左手に火傷を負いました。その後遺症を治すための手術が行われたのは、高等小学校に通っていた1892年10月のことです。執刀したのが、会津若松で会陽医院を開いていた渡部鼎でした。
手術の費用は、教師や同級生の募金で集められました。手術の結果、指は不自由ながら使えるようになり、これが野口が医師を志すきっかけになったとされています。
渡部鼎は1858年に陸奥国河沼郡野沢(現・西会津町)に生まれた医師です。1887年にカリフォルニア大学医学部へ留学し、卒業後はサンフランシスコで開業しました。海外で開業した日本人の先駆けとみられています。父の死去で帰国し、1890年に会津若松で会陽医院を開きました。アメリカで修業した医師が会津にいたことが、野口の人生を動かしたことになります。
書生として住み込んだ約3年
野口は1893年3月、会陽医院に書生として住み込みました。書生とは、他家に住み込んで家事や雑用を手伝いながら、勉強を続ける人のことです。野口はここで医学の基礎を学び、細菌学を知ったのもこの頃とされています。
書生の間の1895年4月7日には、若松栄町教会で洗礼を受けています。約3年の書生生活の後、野口は医術開業試験を受けるために上京しました。会津での日々が、その後の医学修業の出発点だったことがわかります。
山内ヨネ子への恋
書生時代の野口には、恋の話も伝わっています。相手は山内ヨネ子です。野口より6歳年下で、若松栄町教会に通う女学生でした。野口は彼女に何度も恋文を送り、教会の牧師から叱られたといいます。
二人はその後、東京の済生学舎で再会し、学友になりました。ところが1899年、野口が清国へ向かう直前に会いに行くと、山内はそれ以降の面会を断りました。山内は1902年に20歳で医師免許を取り、森川俊夫と結婚して会津若松で三省堂医院を開業しています。
のちに世界で活躍する野口にも、会津の教会で恋文を書いて叱られるような若い時期があったわけです。
建築と歴史から見る野口英世青春館:蔵造りの建物のたどった道
銀行の支店として建った1884年
建物は1884年、第六十国立銀行の支店として建てられました。ただ、銀行としての営業は約5年で終わっています。その後、1891年に渡部鼎が買い取り、会陽医院として使い始めました。医院になる前は銀行だったのです。
構造は2階建てで、前面が蔵造り、後ろ側が木造です。屋根は寄棟(よせむね)の形をしています。外壁は黒漆喰で、会津若松の町なかで古い蔵造りの趣を伝えています。
医院のあとの建物と、復元の経緯
第二次世界大戦後、建物は新聞販売店、電器店、バイク店、百貨店の倉庫などとして使われました。
1976年に照島敏明が喫茶店を開き、1982年には展示を始めました。黒漆喰の外観の復元は、隣にあったガソリンスタンドが撤去されたあとに行われ、完成まで約10年かかりました。費用の多くは照島自身が負担したとされています。建物が今の姿で残っているのは、この個人の取り組みがあったからです。
1階の喫茶店と2階の展示
1階の「會津壹番館」には、時代を感じさせる調度が置かれています。コーヒーには、野口英世にゆかりのある国々の豆が使われているとされています。
2階の展示は有料で、野口に関する資料が約100点並びます。野口が書生として過ごした場所が、そのまま野口の展示の場になっているのが、この施設の特徴です。
野口英世のその後:会津を出てから黄熱病研究まで
アメリカへの渡航と研究
青春館で見られるのは、野口の長い生涯の最初の部分です。上京した野口は、1900年にアメリカへ渡り、ペンシルベニア大学医学部の助手になりました。
黄熱病研究と最期
1918年6月には、ロックフェラー医学研究所の研究員として、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣され、黄熱病の病原体を発見したと発表しました。ただし、この業績は後に否定されています。1920年4月にはペルーを訪れて名誉博士号を授与されました。
1927年10月23日、野口は黄熱病の研究のためアフリカへ向かい、11月16日に英領ゴールド・コーストのアクラに到着します。1928年5月13日に自らも黄熱病と診断されてアクラのリッジ病院に入院し、5月21日に亡くなりました。ニューヨークのウッドローン墓地に埋葬されたのは6月15日です。
会津での書生時代と、アクラでの最期とを並べると、一人の人生の振れ幅の大きさが見えてきます。
ゆかりの地と関連する人物
- 野口英世青春館(會津壹番館):福島県会津若松市中町4-18。旧会陽医院の建物。見学の前に、入館料や開館時間は会津若松市の観光案内などで確かめておくと確実です
- 若松栄町教会:野口が1895年に洗礼を受け、山内ヨネ子が通っていた教会
- 渡部鼎:野口の左手を手術した医師。1932年7月18日に73歳で死去。1902年には衆議院議員にも当選している
- 山内ヨネ子:野口が恋文を送った女学生。のち医師となり、会津若松で医院を開いた
- 小林栄:猪苗代高等小学校の教頭で、野口の優秀な成績を認めた人物
よくある質問
野口英世青春館の建物はいつ建てられましたか。
1884年(明治17年)です。最初は第六十国立銀行の支店として建ち、約5年で閉じました。1891年に渡部鼎が買い取り、会陽医院になりました。
野口英世は会陽医院で何をしていましたか。
1893年3月から約3年、書生として住み込み、医学の基礎を学びました。細菌学を知ったのもこの頃とされています。
野口英世の左手の手術は誰が行いましたか。
渡部鼎です。1892年10月に行われ、費用は教師や同級生の募金で集められました。
建物は文化財に指定されていますか。
1997年に、会津若松市の歴史的景観指定建造物になっています。
見学前に確かめておくことはありますか。
展示は有料です。入館料や開館時間は変わることがあるため、出かける前に会津若松市の観光案内などで確認してください。




