吉田兼好 日本史トリビア

結論:『徒然草』は243段の随筆で、作者の経歴も成立時期も一つに定まっていない

『徒然草』は、卜部兼好(吉田兼好)が書いたとされる随筆で、序段を含めて243段からなります。『枕草子』『方丈記』とならぶ日本三大随筆の一つです。内容は思索、雑感、逸話などで、順序立てずに書かれています。

作者の兼好は弘安6年(1283年)頃の生まれとされ、30歳前後で出家したとみられます。ただし出自や官歴には異説があり、『徒然草』の成立時期も「1330〜31年ごろ」とする説と、「長年書き溜めた文章を1349年頃にまとめた」とする説に分かれます。この記事では、序段の現代語訳、有名な段、そして諸説の分かれ目を、確かめられた範囲で整理します。

基本情報

  • 人物:卜部兼好(吉田兼好、兼好法師)
  • 生年:弘安6年(1283年)頃とされることが多い
  • 没年:観応3年(1352年)以降と考えられている
  • 時代:鎌倉時代末期から南北朝時代
  • 立場:出家した歌人。二条為世に師事し、為世門下の和歌四天王の一人に数えられた
  • 代表作:『徒然草』(序段を含め243段。日本三大随筆の一つ)

『徒然草』序段の現代語訳と、各段の読みどころ

序段「つれづれなるままに」を現代語にすると

序段の原文は「つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。」です。

現代語にすると、「何もすることがなく退屈なまま、一日じゅう硯に向かって、心に浮かんでは消えていくとりとめのないことを、あてもなく書きつけていると、妙に気が変になりそうだ」という意味になります(筆者による訳)。「物狂ほし」と自分を突き放した言い方をしており、この序段は自分を低く見せる言い回しだと解説されています。

仁和寺の法師の話は第52段から第54段まで続く

『徒然草』には、「仁和寺にある法師」の話が第52段から第54段の3段にわたって出てきます。仁和寺は京都市右京区御室にある寺で、仁和2年(886年)に光孝天皇の勅願で建立が始まり、子の宇多天皇が仁和4年(888年)に落成させました。寺名は元号の「仁和」に由来し、「古都京都の文化財」の構成資産として世界遺産に登録されています。

『徒然草』には仁和寺にまつわる話が多く、兼好が暮らした場所が仁和寺の近くだったことと結びつけて語られます。

大根の武者と『平家物語』の作者

第68段は、大根の精霊が武者の姿で現れ、筑紫の押領使を助けるという話です。後世には「大根の武者これ屈強の功の者」という川柳が詠まれ、「功の者」と「香の物」(漬物)をかけた洒落になっています。

第226段は、『平家物語』の作者に関する記述で、現存する最も古いものとされています。随筆であると同時に、同時代の文芸を知る史料としても価値があるわけです。

「不揃いのものがよい」という美意識

英語版 Wikipedia は、兼好の考えとして「不揃いの揃いがよい」(imperfect sets are better)、「万事、始めと終わりが興味深い」といった趣旨の言葉を紹介しています。また、歌人の頓阿が、巻物は包みがすり切れてこそ美しいと語った逸話も挙げています。完全に整ったものより、欠けたものや移ろうものに美を見る姿勢が読み取れます。ただし同記事は、これらの言葉が何段にあたるかまでは示していません。そもそも原著に段の番号はなく、現在の番号は17世紀に付けられたものです。

吉田兼好の経歴と『徒然草』成立をめぐる諸説

出自と官歴は「通説」と「異説」がある

通説では、兼好は吉田神社の神職を務めた吉田流卜部氏から分かれた家の出で、『尊卑分脈』系の「卜部氏系図」では父は治部少輔の卜部兼顕とされます。また、後二条天皇の即位後に六位蔵人となり、その後左兵衛佐に昇進したと伝えられてきました。

これに対し、小川剛生は、この系図や官歴は室町時代に吉田兼倶が作成した可能性が高いと指摘しています。その場合、若いころに卜部姓を名乗っていたこと以外、出自は不明になります。「吉田兼好」という通称で知られる人物ですが、経歴の多くは後世の記録に頼っているのです。

出家の時期と関東下向

兼好は少なくとも2度、関東に下って鎌倉や金沢に滞在しました。このことは家集や金沢文庫の書状から確認できます。

出家は30歳前後とみられています。1313年の大徳寺文書に「兼好御房」の名が見えるため、この時点ですでに出家していたことがわかります。一方、『正徹物語』は後宇多院の崩御(1324年)をきっかけに遁世したと記しますが、この説は史料と合いません。

歌人としての活動と晩年

兼好は二条為世に師事し、『続千載集』に初めて入集しました。大覚寺統の皇族である後宇多院や邦良親王の歌合にも召されています。建武の新政期には内裏の千首和歌に詠進し、建武2年(1335年)以降も京都を離れた形跡はありません。室町幕府の成立後は北朝の要人と関わった記録が多数あり、二条良基の歌会にも出席しています。公家の洞院公賢の日記『園太暦』には、高師直の使者として公賢を訪ねた記述があります。

確実な最後の動静は、観応3年(1352年)8月に二条良基の百首に合点を打ったことです。今川了俊の記述や『兼好家集』の加筆から、その後も生きていたと推測されています。かつては観応元年(1350年)に亡くなったとする説が根拠とされましたが、現在は否定されています。没年は観応3年以降とするほかなく、『新千載集』の下命(1356年)から奏覧(1359年)の間に亡くなったとする説もあります。

『徒然草』はいつ書かれたのか

橘純一は、『徒然草』が1330〜31年ごろにまとめられたとする説を出しました。

現在は、長年書き溜めた文章を1349年頃にまとめたとする説が有力とされています。日本語版 Wikipedia ではこの1349年説に出典の注記が付いており、確定した定説とまでは言えません。英語版 Wikipedia は1330年から1332年の間に書かれたと記しています。

作者についての別の伝承

英語版 Wikipedia によると、三条西実枝は、兼好が小さな紙片に書きつけ、庵の壁に貼っていたと伝え、それを今川了俊がまとめたと推測されています。ただし、現代の研究者の多くはこの説を退けています。

ゆかりの地と関連する人物

双ヶ岡(ならびがおか)と長泉寺

双ヶ岡は京都市右京区御室双岡町にある孤立した丘で、標高は116メートルです。兼好が晩年を過ごした地とされ、西麓の庵で余生を送り、ここで『徒然草』を書いたと考えられています。1941年(昭和16年)に国の名勝に指定され、指定理由は京都盆地における卓越した展望地点であることです。

一の丘の東麓にある長泉寺には兼好の墓や歌碑がありますが、これらは江戸時代に兼好を偲んで建てられた記念物とされます。

仁和寺

先に触れた仁和寺は、第52段から第54段の舞台です。双ヶ岡と同じ京都市右京区の御室にあります。

関連する人物

  • 二条為世:兼好が和歌を学んだ師
  • 後宇多院、邦良親王:兼好が歌合に召された大覚寺統の皇族
  • 洞院公賢、二条良基:室町幕府成立後の兼好と関わりのあった北朝側の人物(良基の歌会には兼好も出席)
  • 正徹:室町中期の僧。『徒然草』に注目し、1431年(永享3年)に書写・校合した写本が現存最古で、静嘉堂文庫に所蔵されている

よくある質問

『徒然草』は日本三大随筆のどれですか。

『枕草子』『方丈記』とならぶ日本三大随筆の一つです。序段を含めて243段あり、思索や雑感、逸話が順不同に並んでいます。

『徒然草』はいつ書かれましたか。

1330〜31年ごろにまとめられたとする橘純一の説がありますが、現在は、書き溜めた文章を1349年頃にまとめたとする説が有力とされます。ただし後者には出典の注記が付いており、確定とは言えません。

吉田兼好と卜部兼好は別人ですか。

同じ人物です。吉田神社の神職を務めた吉田流卜部氏から分かれた家の出とされますが、この系図や官歴は後世に作られた可能性があるという指摘もあります。

『徒然草』が広く読まれるようになったのはいつですか。

成立後およそ100年は、あまり注目されなかったとされます。室町中期に正徹が兼好の作として取り上げ、連歌師らが無常観の文学として共感しました。江戸時代に刊本や注釈書が出て、広く読まれる教訓書になりました。

兼好の墓はどこにありますか。

京都市の双ヶ岡の東麓にある長泉寺に墓と歌碑がありますが、江戸時代に兼好を偲んで建てられた記念物とされています。