徳川吉宗の妻と子供|したこと、政策は?

徳川吉宗は江戸時代の名君として知られている。彼の活躍は享保の改革として教科書にも載っているが、その裏にはどのような家族がいたのだろうか。将軍になるまでの道のりや、彼が手がけた改革の具体的な内容も気になる。

この記事では、徳川吉宗の妻や息子たちといった家族関係から、彼が「米将軍」と呼ばれるほど徹底した享保の改革の全貌まで、詳しく解説する。徳川吉宗の人間的な側面や、彼の行動の背景を知ることで、歴史がもっと面白く、身近に感じられるはずだ。

この記事のポイント
  • 徳川吉宗は、紀州藩主時代の経験を活かし、江戸幕府第8代将軍として「享保の改革」を断行した。
  • 彼の正室は早世し、その後は側室との間に3人の息子がいた。
  • 長男・家重は体が弱かったが、吉宗は長男を優先するという原則を重んじて後継者にした。
  • 改革の柱は、財政再建、人材登用、そして民衆の生活安定であり、目安箱や公事方御定書などの画期的な政策が行われた。
  • 享保の改革は財政再建に大きな成果を上げた一方で、農民には大きな負担を強いることになった。

    徳川吉宗の家族:妻と息子たち

    徳川吉宗の家族構成は、将軍としての彼の行動や、徳川幕府の将来に大きな影響を与えた。特に、正室の早すぎる死と、息子たちのそれぞれの運命は、彼の人生を語る上で欠かせない要素だ。

    正室:早世した真宮理子

    徳川吉宗の正室は、伏見宮貞致親王の娘である**真宮理子(さなのみやまさこ)**だった。彼女は吉宗がまだ紀州藩主だった1706年に結婚したが、残念ながら1710年に20歳という若さで亡くなった。流産後の病が原因だったと伝えられている。吉宗と理子の間に子どもは生まれなかった。正室を早くに亡くした吉宗は、その後、新しい正室を迎えることはなかった。当時の将軍や大名にとって、正室は家を安定させるための政略的な意味合いが強かったが、吉宗が再婚しなかったのは、将軍就任前の出来事であったため、将軍としての職務に集中するためだったのかもしれない。また、この後、側室との間に息子が恵まれたことも、新たな正室を迎える必要性を感じさせなかった一因だろう。

    側室と息子たち

    正室との間に子どもがいなかった吉宗は、複数の側室との間に息子を儲けた。彼らはそれぞれ異なる人生を歩んだ。

    長男・徳川家重:虚弱な将軍と側用人の活躍

    長男の**徳川家重(とくがわいえしげ)**は、側室の於須磨の方から生まれた。家重は生まれつき体が弱く、言葉も不明瞭だったとされている。このため、幼い頃から大奥にこもりがちで、健康を損ねてしまったという。体が弱いことから、将軍の器ではないのではないかという声もあったが、父の吉宗は長男を優先するという家訓を重んじ、家重を将軍後継者とした。これは、個人の能力よりも、血筋や家格を重んじる徳川家の伝統を示している。

    家重は第9代将軍に就任した後、大岡忠光や田沼意次といった有能な側用人の補佐を受けながら政治を行った。彼の体質は将軍としてのリーダーシップに影響を与えたが、そのおかげで優秀な人材が登用されるきっかけにもなった。家重の治世は、将軍個人の能力が政治に直接影響を与え、有能な補佐役の重要性を示した例といえる。

    三男・徳川宗武:学問と文化に生きた聡明な藩主

    三男の**徳川宗武(とくがわむねたけ)**は、側室の於古牟の子として生まれた。彼は幼い頃から非常に聡明で、学問や芸術に深い関心を持っていた。その才能から、虚弱な家重に代わって将軍に推す声も上がったが、吉宗は兄の家重を優先した。将軍になれなかった宗武は、江戸城の田安門内に屋敷を与えられ、御三卿(ごさんきょう)の一つである田安徳川家を創設した。

    これは、万一将軍家の血筋が途絶えた場合に、将軍を出すための予備の家系を作るという、吉宗の将来を見据えた計画だった。宗武は政治的な野心があったにもかかわらず、将軍になれない現実を受け入れ、文化活動に没頭するようになった。彼は万葉調の歌人としても知られ、国学の論争にも積極的に参加した。将軍の直系子孫を増やすことで、将来の将軍家断絶のリスクを減らした吉宗の戦略的な判断は、徳川幕府の安定に大きく貢献した。

    五男・徳川宗尹:鷹狩りを愛した一橋家の創設者

    五男の**徳川宗尹(とくがわむねただ)**は、側室の於梅の子として生まれた。彼も兄の宗武と同様に、一橋徳川家を創設し、御三卿の一員となった。宗尹は多趣味な人物で、特に父の吉宗に似て鷹狩りを好んだ。兄の宗武と鷹狩りの回数を交渉するなど、兄弟仲も良かったようだ。陶芸や染色なども嗜み、自作の陶器を吉宗に贈るなど、文化的な才能も持ち合わせていた。吉宗から深く寵愛されており、その死の直前まで見舞うことが許されていたという。

    宗尹の存在は、御三卿が将軍家の血筋を安定させるための政治的な役割だけでなく、将軍家の一員として個人の趣味や文化活動も奨励されていたことを示している。これは、徳川家が武芸だけでなく、文化的な教養を重んじる伝統を持っていたことを物語っている。

    徳川吉宗が「米将軍」として行ったこと:享保の改革の全貌

    徳川吉宗が将軍として行った最も重要な政策が、享保の改革だ。彼は紀州藩主時代に培った経験を活かし、幕府の財政を立て直すために様々な改革を断行した。

    政治・行政改革:民の意見を直接聞く「目安箱」

    吉宗の行った政策で特に有名なのが、目安箱の設置だ。これは、庶民が政治に対する意見や不満を投書できる箱で、吉宗自らが鍵を開けて投書を読み、政治に反映させたという。これは、当時の封建社会では考えられないほど画期的なことだった。

    目安箱への投書から、貧しい人々のための無料医療施設である小石川養生所が開設された。これは、庶民の声が直接政治を動かした具体的な例だ。また、江戸の防火体制を強化するために、町火消しを組織したのも目安箱がきっかけだった。これらの政策は、吉宗が机上の空論ではなく、現実の課題解決を重視する「実学」の精神を持っていたことを示している。また、庶民の不満を直接聞くことで、大きな反乱を未然に防ぐという社会安定化の機能も果たした。

    公正な裁判を目指した「公事方御定書」

    吉宗は、裁判の公正さを保つため、**公事方御定書(くじかたおさだめがき)**という法律を制定した。これは、裁判や刑の基準を明確にし、司法判断を合理的にするためのものだった。この法律には、犯罪者が改心すれば社会に戻れるという「更生」の思想が盛り込まれていた。それまでの厳しい刑罰から、より人間的な配慮が加わったことは、吉宗の政治哲学の一端を垣間見ることができる。

    能力主義の人材登用「足高の制」

    身分が低い有能な人材を登用するため、吉宗は**足高の制(たしだかのせい)**を導入した。これは、役職に就いた際に、在職中だけ不足している給料を幕府が支給するという制度だ。この制度によって、家柄に関係なく能力のある者が重い役職に就くことが可能になった。この代表的な例が、大岡越前として知られる大岡忠相だ。彼はこの制度によって江戸町奉行に抜擢され、江戸の防火体制の確立や災害対策で手腕を発揮した。この制度は、吉宗が改革の成功には人材が不可欠だと考えていたことを示している。

    財政・経済改革:年貢を増やし、米を確保

    吉宗が「米将軍」と呼ばれるほど力を入れたのが、幕府の財源である米の確保だ。

    「五公五民」と「定免法」で年貢を強化

    幕府に入る米の量を増やすため、吉宗は年貢の徴収を強化した。収穫の配分を、これまでの「四公六民」(4割が幕府、6割が農民)から**「五公五民」(5割が幕府、5割が農民)へと変更した。これにより、農民の負担は非常に大きくなった。また、豊作・凶作に関わらず一定の年貢を収めさせる定免法(じょうめんほう)**を採用し、幕府の収入を安定させた。

    これらの政策は、幕府の財政を立て直すという目的を達成したが、農民の生活を圧迫し、百姓一揆が相次ぐ原因となった。吉宗の改革には、財政再建と民衆の生活安定という、相反する課題がつきまとっていた。

    経済を安定させた「元文の改鋳」

    吉宗は、物価の安定と経済の活性化のために、元文の改鋳を行った。これは、貨幣の金銀の量を減らすことで貨幣の供給量を増やし、デフレ状態だった経済を好転させた政策だ。この改鋳により米価が回復し、経済状況は好転した。吉宗の貨幣改鋳は、単なる財政再建に留まらず、経済全体を活性化させることを目指した実用主義的な政策であり、その後の江戸経済に長期的な安定をもたらした点で高く評価されている。

    FAQ

    Q1: 徳川吉宗の妻は誰?

    A: 徳川吉宗の正室は、真宮理子(さなのみやまさこ)だ。彼女は吉宗が将軍になる前に亡くなり、その後は新しい正室を迎えなかった。側室との間に複数の子どもが生まれた。

    Q2: 徳川吉宗は何をした人?

    A: 徳川吉宗は、江戸幕府第8代将軍として、享保の改革を断行した人物だ。幕府の財政を立て直し、政治や社会の様々な問題解決に取り組んだ。

    Q3: 徳川吉宗の政策にはどんなものがある?

    A: 享保の改革では、目安箱の設置、公事方御定書の制定、足高の制の導入、上米の制、年貢徴収の強化、元文の改鋳、新田開発の奨励など、多岐にわたる政策が行われた。

    Q4: なぜ徳川吉宗は米将軍と呼ばれた?

    A: 徳川吉宗は、幕府の財政を立て直すために、米の増産と年貢の徴収に徹底的に力を入れたからだ。年貢率を「五公五民」に引き上げるなど、米収入の最大化に尽力したことがこの呼び名の由来だ。

    Q5: 享保の改革の成果と限界は何?

    A: 成果としては、幕府の財政を立て直し、巨額の蓄えを作ることに成功した。しかし、その一方で年貢率の引き上げにより農民に大きな負担を強いることになり、百姓一揆が増加するなど、民衆の生活は苦しくなった。

    Q6: 徳川吉宗の息子は何人いた?

    A: 正室との間には子どもがいなかったが、複数の側室との間に、長男の徳川家重、三男の徳川宗武、五男の徳川宗尹をはじめとする子どもがいた。

    Q7: 目安箱から生まれた政策には何がある?

    A: 目安箱への投書をきっかけに、貧しい人々のための無料医療施設である小石川養生所の開設や、江戸の防火体制を強化するための町火消しの組織化が実現した。

    まとめ

    徳川吉宗の治世は、享保の改革という強力なリーダーシップのもとで行われた、幕府の財政再建の歴史として語られることが多い。しかし、彼の人生は、正室との早すぎる別れや、息子たちのそれぞれの運命など、人間的な側面も多く含んでいた。

    特に、目安箱の設置や小石川養生所の開設など、民の声に耳を傾け、具体的な行動に移した彼の姿勢は、現代にも通じる政治の理想像と言えるだろう。一方で、農民に重い負担を強いるなど、改革の限界も指摘されている。

    このように、徳川吉宗は「米将軍」として、将軍としての役割を全うし、幕府の権威回復と安定に貢献した。彼の政策がもたらした成果と課題は、その後の江戸時代の歴史に大きな影響を与えた。

    今後、歴史の教科書を読む際には、徳川吉宗の「したこと」だけでなく、彼の家族や人間性にも目を向けてみると、さらに深く歴史を理解できるだろう。