大隈重信は明治から大正にかけて政界の中心に立ち、首相を二度務めた。早稲田の前身となる学校を興し、外交や財政でも重職を担った。教育でも影響を残した。
その大隈に「右足」という連想が付く。外務大臣の時、外務省門前で爆弾に襲われ、一命はとりとめたが右脚を切断して義足となったためである。
この事件は条約改正をめぐる対立の中で起き、外交交渉の行方や内閣の動きにも影響した。在外公館への通達も必要になり、政局は揺れた。
切断された右脚の保存や義足の実物が残ることで、話は逸話として膨らみやすい。義足は記念館の収蔵物として紹介され、右脚の保存も日赤に残るとされる。
大隈重信の右足が失われた爆弾事件
1889年の遭難事件は何が起きたか
1889年10月18日、外務大臣だった大隈重信は、閣議後に外務省の門前で馬車へ爆弾を投じられ重傷を負った。事件は「大隈重信遭難事件」とも呼ばれる。
爆弾を投じた人物として、玄洋社の社員とされる来島恒喜の名が挙がる。条約改正を進める外務省への反発が動機の一つとして語られる。
当時の条約改正では、外国人司法官の任用などが争点となり、賛否が鋭く割れていた。政治的緊張が高い局面で、暴力が現実の脅威になった。
大隈は命を落とさず、のちに政界へ復帰して首相も務める。だからこそ、右足の喪失は「その後」を含めて語られ、単発の事件で終わらない。
近代史解説でも、襲撃が条約改正交渉の挫折につながった点が整理される。右足の出来事は、外交史の節目として位置付けられている。
右足切断に至った負傷と手術
爆発で右足の膝関節以下が砕け、上部で切断せざるを得ないと判断されたという記述が残る。膝上での切断だった点は複数資料で一致する。
偶然門前を通りかかった医師が変事を見て駆け込み、状況を目の当たりにしたとされる。医師が集まる動きの速さが伝わる。
手術は当日の夜に行われ、開始時刻や終了時刻まで記す記録もある。短時間で完了したとされ、当時として大きな外科手術だった。
切断手術は身体への負担が大きく、術後は義足装着へ向けた回復が必要になる。回復と生活の工夫が論点になっている。
大隈自身の回想談を引用する資料もあり、衝撃の強さがうかがえる。だが回想は主観も混じるので、手術記録など確かな層と突き合わせて読むのがよい。
右足の喪失が政治に与えた影響
襲撃の直後、条約改正交渉は中止へ向かい、外交方針は立て直しを迫られた。外相が重傷で離脱する事態は、交渉そのものを止める力を持った。
解説では、大隈の失脚により交渉が挫折したと整理される。暴力事件が、国の交渉力や国際的信用に直結した場面である。
在外公館へ状況を伝える草案が残っていることからも、事件が外交の現場に直結していたと分かる。国内の事件が国際交渉の足場を揺らした。
この出来事は、政策の進め方や世論の扱いをめぐる反省材料にもなった。政治の言葉だけでなく、社会の熱が政策を左右することを示した。
それでも大隈はのちに復帰し、1898年と1914年に首相となる。右足を失った後も政治に関与し続けた事実が、人物評価を支える土台になっている。
大隈重信の右足と義足生活
どんな義足を使ったのか
切断後、大隈は義足で暮らすことになった。義足は当時の医療と工業の結晶で、国内外の技術が試される領域でもあった。
佐賀の大隈重信記念館は、襲撃後に使用した義足の一つを収蔵物として紹介している。製造はアメリカ企業とされ、当時最高級と説明される。
記念館の解説では、1889年10月の襲撃で右脚を切断した後に用いた義足の一本であるとされる。事件と義足が直結する史料である。
ただし、性能が高くても日本の生活様式と相性が良いとは限らない。座って過ごす場面が多いと、関節部に負担が集中し破損しやすいとも説明される。
義足は一本で完結する道具ではなく、調整や修理、使い分けが付きまとう。収蔵品が「義足のうちの一本」とされる点も、その現実を示している。
義足での暮らしと公務復帰
大隈は回復後、再び政治の表舞台へ戻り、外相や首相などの要職を担った。義足になっても公務を継続した事実は経歴から確認できる。
ただ、義足生活は身体の工夫が要る。歩行だけでなく、立ち座りや階段、長時間の会合など、日常の場面で負担が生じやすい。
切断から回復、義足装着、社会復帰までの過程を扱う研究では、生活管理やセルフケアの視点が置かれている。政治家の健康管理が公務の継続に直結した。
外務大臣としての襲撃後も、政党結成や内閣運営に関与し続けた点は、単なる回復ではなく復帰の実績である。
「不屈」とだけ語ると現実から離れる。支えた医療や周囲の補助、本人の生活調整が積み重なって、義足のままの公務が成り立ったと見たい。
右足が残したイメージと誤解
爆弾事件と切断は、政治的暴力が外交を揺さぶった象徴として語られる。条約改正の議論が熱を帯びた時代背景が、右足の記憶に影を落とす。
大隈の言葉として紹介される台詞は多いが、言葉の出所が不明確なものも混ざる。名言だけで人物像を決めず、出来事と経歴を軸に捉えるのが堅実だ。
切断手術の具体的経過や医師名は資料に残るため、逸話よりも史料で確かめやすい部分がある。まず確かな層を押さえると誇張が混ざりにくい。
義足や関係資料が現物として残り、写真資料も紹介されるため、話が広まりやすい。
だからこそ、確実に言える部分は「爆弾襲撃で右脚を切断し、義足となった」までである。周辺の逸話は資料の確かさに応じて扱いを変えたい。
大隈重信の右足はどこにあるのか
切断された右脚の保存と移動
切断された右脚は、保存されてきたことが知られている。資料紹介では、切断された足が日赤に保存されていると述べられる。
医療系の記事でも、切断された足が日本赤十字社に保管されていたことが新聞記事で分かった、と紹介される。
保管や移動が新聞で話題になった経緯にも触れられる。こうした情報は時点に依存しやすく、「今どこか」を断定する時は気をつけたい。
保存された右脚は、私物であると同時に歴史資料でもある。扱いが難しいからこそ、保管の話が節目ごとに語られ、後日談として残りやすい。
所在地より大事なのは、保存の事実が人物像の一部として記憶された点である。右足は政治史と生活史をつなぐ「物」として扱われてきた。
義足が残る場所と見られる機会
義足は佐賀市の大隈重信記念館が収蔵物として紹介している。襲撃後に使用した義足の一つが解説とともに示される。
観光案内でも、暴漢に襲われた後に使用した義足が見どころとして触れられる。
義足の解説には、生活様式との相性や破損のしやすさも含まれる。政治史だけでなく、当時の技術と暮らしを考える手掛かりになる。
早稲田大学の歴史館は、遭難事件に関係する資料を所蔵していると案内している。右足の話を一次資料の文脈で確かめたい人には重要な窓口だ。
展示の内容や公開の範囲は、時期や企画で変わり得る。見学を考えるなら、最新の公式案内で開館日や企画を確かめるのが確実である。
右足に関するよくある疑問
「右足は保存されたのか」という問いはよく出る。案内には日赤に保存されている旨があり、医療系の記事でも保管に触れられている。
「切断位置はどこか」も誤解が起きやすい。膝上での切断とする記述が多い一方、史料は表現がさまざまで、厳密な部位は言い切らない方が安全だ。
「右足」という語が、切断された右脚そのものを指すのか、義足を含む生活史を指すのかで話がずれることもある。まず何を指すかを揃えると混乱が減る。
事件名が「遭難事件」と呼ばれるのは、政治的暴力を含む衝撃をやわらげる言い回しでもある。条約改正の文脈まで視野に入れると、右足の意味が深まる。
まとめ
- 大隈重信の右足を失う原因は1889年10月18日の爆弾襲撃である
- 襲撃は外務省門前で起き、来島恒喜が関わったとされる
- 右足は重傷で、膝上での切断が必要と判断された記述がある
- 手術は当日夜に行われたとする記録が残る
- 事件は条約改正交渉の停滞と政局の混乱を招いた
- 大隈は義足生活となっても政界に復帰し、首相も務めた
- 佐賀の大隈重信記念館は義足の収蔵品を公式に紹介している
- 義足は座る生活に合いにくいなど、当時の制約も説明される
- 切断された右脚は日赤に保存されているとする記述がある
- 逸話は誇張されやすく、資料の確かさに応じて扱いを変える必要がある




