坂本龍馬の真実:身長、妻、子孫、誕生日、そして長崎での活躍に迫る!

坂本龍馬は、今から約160年ほど前の江戸時代の終わりに、日本の古い仕組みを新しく変えようと活躍したすごい人だ。1835年に今の高知県に生まれた。もともとは武士の中でも下の身分だったが、裕福な商家「才谷屋」の分家だったので、お金に困ることはなかった。

彼は土佐藩という故郷を飛び出し、日本で初めての貿易会社であり、政治のグループでもあった「亀山社中(後の海援隊)」を作った。さらに、仲が悪かった薩摩藩と長州藩を仲直りさせたり、日本の政治のやり方を大きく変える「大政奉還」に深く関わったりと、今の日本を作る上でとても大切な役割を果たした。わずか33歳という若さで亡くなってしまったが、彼の残した功績は、日本の歴史を大きく変えるきっかけとなった。

この記事のポイント
  • 坂本龍馬の身長は当時としては飛び抜けて高かった。
  • 妻おりょうは坂本龍馬の命を救った勇敢な女性だった。
  • 坂本龍馬に直系の子供はいなかったが、家はしっかり受け継がれた。
  • 坂本龍馬の誕生日は、実は確かな記録が残っていない。
  • 長崎は坂本龍馬が新しい日本を作るための大切な拠点だった。

坂本龍馬の身長はどれくらい?当時の日本人と比べてみた

坂本龍馬は背が高かった?気になる身長の謎

坂本龍馬の身長については、いくつかの説があるが、一番有名なのは169cm、体重66kgという説だ。これは、お医者さんでもある歴史小説家の篠田達明さんという方が、龍馬の写真などから研究して出したものだ。龍馬が写真で右手を懐に入れているのは、ピストルを持っていたから、という話もあるが、篠田さんは胃の病気だったからお腹をさすっていたのかもしれない、と見ている。ナポレオンも胃潰瘍で同じようにしていた例があるそうだ。

別の説では173cm、体重80kgで、がっしりした体格だったとも言われている。さらに、全身写真から計算すると175cmから188cmというもっと高い説もある。当時の着物の襟の幅などから計算する方法や、顔の長さと靴の長さの割合から足のサイズを推定し、そこから身長を逆算する面白い方法も使われている。例えば、身長が169cmだとすると、足のサイズは24.5cmくらいだったと考えられている。龍馬の写真の多くは、彼が31歳から33歳くらいの頃、長崎の有名な写真スタジオで撮られたものだと言われている。

当時の日本人と坂本龍馬の身長を比較

江戸時代の男性の平均身長は、だいたい155cmから158cmくらいだったと言われている。これは、お墓から見つかった骨の長さなどから推定されたものだ。この平均身長と比べると、坂本龍馬の身長169cmや173cmは、当時としては頭一つ分以上大きく、とても背が高かったことがわかる。

彼は当時、きっととても目立つ存在だっただろう。ちなみに、当時の女性の平均身長は143cmから146cmくらいだった。龍馬のお姉さんである乙女さんは、身長176cm、体重112kgと伝えられていて、龍馬よりもさらに大柄な女性だったそうだ。

坂本龍馬の身長が高く、がっしりした体格だったことは、当時の人々にも強い印象を与え、彼のリーダーシップやカリスマ性をより際立たせる一因になったと考えられる。写真を通して今に残る彼の姿が、その「英雄」というイメージをさらに強くし、彼を「すごい人物」として私たちに伝えていると言えるだろう。

坂本龍馬 身長 (説1) 169cm 写真からの推定、篠田達明氏の見解
坂本龍馬 体重 (説1) 66kg 写真からの推定、篠田達明氏の見解
坂本龍馬 身長 (説2) 173cm 「ガッシリマッチョ体型」との関連
坂本龍馬 体重 (説2) 80kg 「ガッシリマッチョ体型」との関連
坂本龍馬 身長 (全身写真からの推定範囲) 175-188cm 全身写真からの計算
当時の男性平均身長 (江戸時代) 155-158cm 人骨からの推定
当時の女性平均身長 (江戸時代) 143-146cm 人骨からの推定
坂本乙女 (姉) 身長 176cm
坂本乙女 (姉) 体重 112kg

坂本龍馬の妻、おりょう:波乱の人生を歩んだ女性

おりょうと坂本龍馬の出会い

坂本龍馬の奥さん、楢崎龍(ならさき りょう)、通称おりょうは、龍馬の人生にとってとても大切な人だった。彼女自身の人生も、幕末から明治にかけての激しい時代を象徴するようなものだった。

おりょうは1841年に京都で生まれた。お父さんはお医者さんで、もともとはお金持ちの家に育った。お花を生けたり、お香をたしなんだり、お茶を点てたりと、たくさんの教養があったが、料理は苦手だったそうだ。しかし、「安政の大獄」という事件でお父さんが捕まって病気で亡くなってしまい、楢崎家はとても貧しくなってしまった。

残された家族を養うために、おりょうは旅館で働くことになり、この頃に坂本龍馬と出会ったと言われている。具体的には、1864年に、土佐藩の志士たちが隠れて使っていた「河原屋五兵衛」という場所で、お母さんと妹さんと一緒に住み込みで働いているときに龍馬と出会ったそうだ。その後、龍馬はお登勢という伏見の寺田屋の女将に彼女を預け、おりょうはお登勢さんの養女として「お春」という名前で働くことになった。

寺田屋事件と日本初の新婚旅行

1866年1月、伏見の寺田屋に泊まっていた坂本龍馬が、役人に襲われる事件が起きた。このとき、お風呂に入っていたおりょうは、襲撃の気配に真っ先に気づき、裸に浴衣を羽織っただけの姿で、龍馬に危険を知らせた。彼女の機転のおかげで、龍馬は怪我をしたが、間一髪で逃げることができた。この出来事は「寺田屋事件」として歴史に刻まれている。

寺田屋事件の後、おりょうは坂本龍馬と結婚した。怪我をした龍馬の傷を治すため、二人は鹿児島県の霧島温泉へ向かった。この旅行は、日本で初めての新婚旅行として知られていて、その後の新婚旅行の考え方に大きな影響を与えたと言われている。

坂本龍馬が亡くなった後のおりょうの人生

坂本龍馬が暗殺された後、おりょうの人生は大変なものだった。彼女は土佐、京都、東京とあちこちを転々とした。その後、神奈川宿の旅館「田中屋」で仲居として働いていた時期もあり、田中屋に伝わる話では、彼女は頑固で扱いにくい性格だったとされているが、本当のところはわからない。

明治8年(1875年)に、旧知の商人である西村松兵衛と再婚し、「西村ツル」と名乗って横須賀に引っ越した。松兵衛さんはもともと呉服屋さんの若旦那だったが、明治維新の混乱で家業が傾き、横須賀で大道商人として生計を立てていた。再婚後、おりょうは実のお母さんと、妹・光枝さんの子供である松之助さんを養子として引き取ったが、明治24年(1891年)にはお母さんと養子を立て続けに亡くしている。

晩年のおりょうは、お酒に頼ることが多くなっていて、酔うと松兵衛さんに「私は龍馬の妻だ」と悲しそうに話していたというエピソードが残っている。お酒の飲みすぎや、これまでの無理がたたって、明治39年(1906年)1月15日に横須賀で66歳で亡くなった。

明治16年(1883年)に坂崎紫瀾(さかざき しらん)という人の書いた『汗血千里駒(かんけつせんりこま)』という本が大ヒットし、忘れ去られていた龍馬の名前が世の中に広く知られるようになった。しかし、この本には事実と違うことや、作者の創作も多く、おりょうは「間違いが多くて残念だ」と話していたそうだ。このため、安岡秀峰(やすおか しゅうほう)や川田雪山(かわた せっざん)がお龍の家を訪ねて話を聞き、彼女の証言を記録に残した。晩年は貧しい暮らしで、夫に先立たれた妹の光枝がお龍を頼るようになったが、やがて松兵衛さんと光枝さんが夫婦のような関係になり、二人でお龍の元を離れて別々に暮らすという悲しい出来事も経験している。その後は、退役軍人の工藤外太郎さんに助けられて余生を過ごした。

坂本龍馬の手紙を燃やした理由

おりょうは、坂本龍馬から送られてきたたくさんの手紙を、他の人に見せたくない、二人だけのものにしておきたかったから、ほとんど全て燃やしてしまったと言われている。このため、おりょうに宛てた龍馬の手紙は、たった1通しか残っていない。この行動は、彼女が龍馬との個人的なつながりをとても大切にし、それを他の人に利用されることを拒んだ、彼女なりの尊厳の表れと考えることができる。

坂本龍馬に直系の子孫はいない?坂本家の家系をたどる

直系の子供はいない坂本龍馬

歴史の記録によると、坂本龍馬には自分の子供がいなかったので、彼の子孫は直系ではいない。これは、彼の家を継いだのが、龍馬のお姉さんである千鶴さんの長男である「直(なお)」だったという事実からもわかる。当時の日本では、「家」を途絶えさせないことがとても大切にされていたので、自分の子供がいない場合は、養子をもらって家を継ぐのが普通だった。坂本龍馬に直系の子供がいなかったという事実は、当時の社会が、血のつながりよりも「家」というグループを維持することを優先していたことをはっきりと示している。これは、今の私たちの「個人」を大切にする考え方とは違う、昔の価値観を理解する上でとても大切なことだ。龍馬の新しい考え方とは反対に、彼の家は昔からのやり方で家を継いでいたという面白い側面があり、個人の偉大な行いと家を存続させるという二つの異なることが、当時の社会でどう両立していたかを教えてくれる。

郷士坂本家の歴史と家を継いだ人々

坂本家は、もともと京都の近くの山城国出身だと名乗っていて、1588年の土地の調査では、才谷村で農民として登録されていたそうだ。2代目彦三郎と3代目太郎左衛門の代には農業をしていて、4代目守之、5代目正禎の頃には、お金持ちの農家として有名になり、「大浜」という名前を家名とした。1666年には、3代目太郎左衛門の次男である八兵衛が、高知城下で質屋さん「才谷屋」を開き、お酒や呉服などを扱う大商人になった。この才谷屋は、坂本龍馬の家のもとになったお店だ。

1730年頃には、町のお年寄り役になり、お殿様にも会うことが許されるまでになった。そして1770年には、6代目直益が「郷士(ごうし)」という武士の身分を買い取り、長男の直海を郷士坂本家の初代として、別の家を立てさせた。これにより、公に苗字を名乗り、刀を2本差すことができる身分になった。次男の直清には、商家才谷屋を継がせている。郷士坂本家3代目である直足は、上の身分の武士である山本信固の次男として生まれ、坂本家に養子に入った。この直足の次男が坂本龍馬(直柔)だ。

龍馬のお兄さんである権平さんには子供がいなかったので、千鶴さんのもう一人の息子である「直寛(なおひろ)」が権平さんの養子となり、家を継いだ。坂本直行(さかもと なおゆき)さんは、この直寛さんの孫で、郷士坂本家の8代目当主にあたる。つまり、坂本龍馬の甥の孫ということになる。坂本家の家紋は「組み合わせ桝に桔梗(ききょう)」だ。龍馬のお墓には「坂本龍馬 紀直柔」と彫られている。

ちなみに、坂本家が明智光秀の娘婿である明智秀満の子孫であるという話もあるが、これは小説に出てきたもので、坂本家の記録に血のつながりを証明する資料はなく、作り話だとされている。

北海道への移住と現代の子孫

郷士坂本家は、5代目当主である直寛さんの代に、明治30年(1897年)に一族みんなで北海道へ引っ越した。この引っ越しは「土佐訣別(とさけつべつ)」と呼ばれていて、今、高知県には郷士坂本家の人々がいないと言われている。直寛さんは、北見の原野に農場を開き、次の年には石狩国樺戸郡月形村浦臼(いしかりのくにかばとぐんつきがたむらうらうす)に移住している。この北海道の開拓は、坂本龍馬が生きていた頃の夢でもあったと言われている。直寛さんは、武市半平太の後に武市家を継いだ武市安哉(たけち あんざい)さんたちと一緒に、キリスト教の考え方に基づいて活動したり、自由民権運動を行ったりしていて、この考え方に基づいた理想の町づくりを夢見て北海道に移住したと伝えられている。

このように、坂本龍馬に直系の子供はいないものの、郷士坂本家の子孫は日本中にいて、特に北海道には多くいる。郷士坂本家が北海道に移住したことは、ただ単に場所を移しただけでなく、龍馬が思い描いていた「新しい日本」を作ること、特に北海道を開拓するという夢が、彼が亡くなった後も血のつながりのある人たちによって具体的に受け継がれたことを示している。直寛さんがキリスト教の考え方や自由民権運動に力を入れたことは、龍馬が目指した開かれた新しい社会の実現という精神的なものが、血のつながりだけでなく、志を受け継ぐ人たちによって生き続けた証拠とも言えるだろう。これは、個人が亡くなった後も、その考え方や夢が、家族や志を受け継ぐ人たちによって、形を変えながらもずっと生き続けるという、歴史の奥深さを示している。

坂本龍馬の誕生日はホント?曖昧な記憶と創作の狭間

誕生日は謎だらけ?確かな資料がない理由

坂本龍馬の誕生日は、彼の命日と同じ11月15日だという話が広く知られている。しかし、この誕生日について、はっきりとした資料はどこにも残っていないと言われている。私も龍馬の誕生日について色々調べてみたが、確かな証拠となる資料は見つからなかった。

当時の日本は和暦(月の動きに基づく暦)を使っていたので、今の西暦にすると日付がずれてしまう。具体的には、誕生日とされている天保11年11月15日は西暦1836年1月3日、命日の慶應3年11月15日は西暦1867年12月10日となる。このずれから、当時は「誕生日」という今の感覚自体が薄かったのではないかと私は考えている。西暦で計算すると、坂本龍馬の人生は31年11ヵ月ということになる。

妻おりょうの証言と信憑性

この誕生日の話の出どころは、坂本龍馬の妻であるおりょうの、はっきりしない記憶に基づいていると言われている。明治時代になり、坂本龍馬を主人公にした新聞連載小説のその後を描くために作者がおりょうにインタビューしたとき、彼女は「11月15日と聞いたような、いや10月15日だったような気もする……。」と、かなり曖昧な証言をしている。

このため、命日が誕生日と同じ日だと、「暗殺」がよりドラマチックになるので、誕生日の件は作者の創作である可能性が高いと考えられている。歴史学の専門家の間では、明確な資料がないという点では共通の認識のようだ。知野文哉(ちの ぶんや)さんという方の著書『「坂本龍馬」の誕生』では、「船中八策(せんちゅうはっさく)」のエピソードも明治以降の伝記で創作されたと見ていて、坂本龍馬に関する有名な話には創作が多い可能性を指摘している。

坂本龍馬の誕生日をめぐる話は、歴史上の「事実」がどのように作られ、多くの人に広まっていくかという過程をはっきりと示している。特に、はっきりとした古い資料が少ない場合、個人の記憶や、後世の人々が求める物語としての面白さが「事実」として受け入れられることがある。これは、歴史が単なる出来事の並びではなく、人々の記憶や気持ち、解釈によって形作られる側面があることを示唆している。

命日と誕生日が同じという設定は、その人物の運命や宿命を強調し、物語としての魅力を高める効果がある。また、「船中八策」のように、坂本龍馬に関する他の大切なエピソードにも、後世の創作や資料的な根拠の薄さが指摘されている。これは、坂本龍馬という人物が、明治以降の新しい国を作っていく時代に、特定の役割を果たす「英雄像」として意図的に作られた可能性を示唆している。

坂本龍馬が生まれた場所:高知市上町

坂本龍馬の誕生地、高知市上町

坂本龍馬が生まれた場所は、高知県高知市上町1丁目7-34とされている。この場所は、路面電車の「上町1丁目」電停から歩いて1分という、とても行きやすい場所にある。

誕生地の碑と整備の歴史

坂本龍馬が生まれたことを記念する碑は、1952年(昭和27年)5月に、当時の吉田茂首相が書いた文字によって建てられた。その後、1968年(昭和43年)には「明治百年記念行事」の一つとして、高い台座を含めて整備された。さらに、2002年(平成14年)には、その前に詳しい説明板とモニュメントが作られ、より詳しく情報が提供され、見た目にも分かりやすくなった。

龍馬の生まれたまち記念館

坂本龍馬の誕生地の近くには、「龍馬の生まれたまち記念館」がある。この記念館は2004年(平成16年)3月21日にオープンし、坂本龍馬が故郷を離れるまでのエピソードを中心に、村上豊さんの絵と北古味可葉(きたごみ かよう)さんの書によるパネル展示などで紹介されている。記念館は年中無休で、午前8時から午後7時まで開いていて、大人300円で入館できる(高校生以下は無料だ)。これらの場所は、坂本龍馬が小さい頃や土佐で過ごした生活に触れることができる貴重な歴史的な場所として、多くの観光客に利用されている。

坂本龍馬と長崎:新しい日本を夢見た拠点

なぜ長崎が重要だったのか?

長崎は、江戸時代の終わり頃の坂本龍馬にとって、新しい考え方を作り、政治や経済の活動をする上でとても大切な場所だった。当時の長崎は、外国と交流できる唯一の窓口で、一番新しい情報や技術、そして国際的な商売が集まる場所だった。このような環境は、坂本龍馬が日本の未来を見据え、世界の動きを理解するための土台となった。彼は長崎を拠点に、仲が悪かった薩摩藩と長州藩を仲直りさせる「薩長同盟」の実現のために走り回り、日本で初めての貿易会社「亀山社中」を作るなど、新しい日本の礎を築いていった。

坂本龍馬の主な活動拠点と組織

亀山社中

慶応元年(1865年)、土佐藩を脱藩した坂本龍馬や、神戸で海の守りについて学んだ海軍塾の仲間たちが、海運業や貿易、政治活動をするために長崎に入り、亀山焼の窯の跡地(現在の長崎市伊良林)に拠点を置いて「亀山社中」を結成した。この名前は、その場所の地名からきている。最初は、物の売買の仲介や運搬で利益を得ていたが、薩摩藩と長州藩の仲を取り持つ役目も果たし、順調に運営されていた。長崎の港や長崎奉行所、長崎街道が見渡せる場所にあり、情報収集にはとても良い場所だった。慶応3年(1867年)4月には、後藤象二郎(ごとう しょうじろう)が率いる土佐商会(土佐藩の貿易会社)の傘下に入り、土佐藩からお金の援助を受けるようになり、このときに「海援隊」と名前を変えた。坂本龍馬が暗殺された後、まとめる人がいなくなり、慶応4年(1868年)4月に藩の命令で土佐商会と一緒に解散した。亀山社中の跡地は今、長崎県の史跡になっていて、亀山社中記念館として公開されている。

小曽根邸

小曽根邸は、現在の長崎市万才町にあり、江戸時代から明治時代にかけて長崎を代表するお金持ちの商人だった小曽根家の屋敷だった。亀山社中が海援隊に名前を変えた後、本部は小曽根邸に移された。坂本龍馬は亀山社中よりも、小曽根邸で活動することが多かったと言われていて、勝海舟(かつ かいしゅう)や坂本龍馬などの志士たちが頻繁に出入りしていた。小曽根乾堂(おぞね けんどう)さんの弟である英四郎(えいしろう)さんは、海援隊のお金の管理をしていた。また、海援隊の近藤長次郎(こんどう ちょうじろう)が、イギリスへ一人で渡ろうとした計画がバレて、約束を破ったとして小曽根邸の一室「梅ノ間」で切腹した場所としても知られている。龍馬の妻おりょうも長崎に滞在中、小曽根家の別邸に身を置き、月琴(げっきん)という楽器や短い銃の稽古を受けていた。

清風亭

清風亭は、昔の長崎榎津町(現在の長崎市万屋町)にあった料亭だ。あまり広くない二階建ての料亭で、土佐藩と関係が深く、秘密の会議をするのに適した場所だった。慶応3年(1867年)1月、坂本龍馬はこの料亭で土佐藩の政治家である後藤象二郎と会談した。この会談で二人は意気投合し、政治活動に力を入れ、同年4月には土佐海援隊が作られ、10月には大政奉還が実現した。

交流人物と影響

トーマス・ブレイク・グラバー

坂本龍馬は長崎でイギリスの貿易商人トーマス・ブレイク・グラバーと出会い、大きな影響を受けた。グラバーは港が開くと同時に長崎に来て、外国との貿易で大きな力を持っていた。坂本龍馬はグラバーから商売をする上での心構えなどを学び、その経営の考え方が龍馬の事業活動に深く影響を与えたと言われている。グラバーは坂本龍馬などの志士たちに銃や船、機械などをたくさん売り、お茶や絹、銀、各地の特産品を輸出することでたくさんのお金儲けをした。坂本龍馬はグラバーと協力し、「薩摩藩」の名前で武器を買い、それを「長州藩」にこっそり流すという仲介を行った。これは、内戦が起きれば武器商人や外国のお金持ちがさらに儲かるという計算があったと言われている。グラバー園の中には、坂本龍馬が幕府から追われるときに隠れていたとされる秘密の部屋のエピソードも残されている。

その他の交流人物

  • 大浦慶(おおうら けい): 長崎油屋町のお金持ちの商人だった。日本茶を外国に輸出し、莫大な利益を得たすごい女性だ。グラバーを介して坂本龍馬と出会い、「お慶屋敷」は亀山社中の若い人たちの秘密の拠点でもあった。
  • お元(おもと): 長崎の丸山芸者で、坂本龍馬が愛した女性の一人だ。
  • 近藤長次郎(こんどう ちょうじろう): 土佐藩出身で、亀山社中の結成に参加し、「龍馬の片腕」とも呼ばれたが、英国への単独渡航計画がバレて、小曽根邸で切腹した。
  • 沢村惣之丞(さわむら そうのじょう): 龍馬と一緒に土佐を脱藩し、神戸海軍操練所、亀山社中、海援隊と常に龍馬を支えた。慶応4年1月、長崎奉行所を占拠したときの誤って人を殺してしまった事件の責任を取り、海援隊本部で切腹した。

思想形成への影響

坂本龍馬の考え方が作られる上で、長崎はとても大切な役割を果たした。特に、画家の**河田小龍(かわだ しょうりゅう)**との出会いは、坂本龍馬に外国の事情や世界の大きな流れ、日本の未来について深く考えさせるきっかけとなった。小龍は、国を守るための備えの必要性を説き、外国の船を買って商売を始め、色々な国の物を運んで貿易を盛んにしてお金儲けをし、さらには船の操り方を練習し、もしもの時には海の守りの一番前線に立つことが今すぐすべきことだと、国を守るために海軍が絶対に必要だという考えを説いた。この話は坂本龍馬を深く感動させ、彼の世界中で貿易をするという壮大な計画を作る上で決定的な影響を与えた。

長崎という環境自体が、坂本龍馬の「ベンチャー精神」を育んだ土壌となった。長崎は当時の主要な貿易都市で、世界の情報が集まる情報の発信地だった。この地で、坂本龍馬は勝海舟の神戸海軍操練所が解散した後、故郷を離れた浪人や革命家たちを組織し、日本で初めての「ベンチャービジネス」とも言える亀山社中を設立した。薩摩藩からのお金の援助や、グラバーから汽船「ユニオン号」を買うためのお金を調達するなど、複数の投資家からお金を集める戦略は、今のスタートアップ企業に通じるものがある。坂本龍馬は、どんな組織の100%子会社にもならず、常に会社の独立性を目指した。

グラバーとの関係は、坂本龍馬に単なる商売の技術だけでなく、世界的な視点と経営の考え方を与えた。グラバーの商売の才能と、幕府を倒そうとする人たちとの取引をいとわない姿勢は、坂本龍馬が武器の調達を通じて薩長同盟を仲介する上で欠かせない要素となった。この武器の貿易は、薩摩と長州の両方に利益をもたらし、亀山社中も潤うという、みんなにとって良い関係を築いた。

海援隊の事業活動に見る近代企業組織の芽生え

亀山社中が名前を変えた海援隊は、単なる政治のグループではなく、近代的な企業組織の始まりを感じさせる、様々な事業活動を行った。海援隊は土佐藩の組織に組み込まれつつも、独立した外部の組織として機能した。その活動目的は「運輸、利潤、開発、投機、藩の支援」とはっきりと書かれていて、武士の組織としては画期的な「利益を追求すること」を重視していた。

具体的な事業活動としては、海の運送や貿易事業を続けることに加えて、お金を貸し付けるなどの金融サービス、北海道の開発などの開発事業、値段の変動を利用した投機、そして藩の軍事的な支援など、多岐にわたる。また、人材を育てることにも力を入れ、政治、砲術(大砲の技術)、航海術、蒸気機関、外国語など、当時の最新の知識を学ぶことを奨励した。海援隊は、その組織の作り方も、民政、軍事、機械、測量、運用(営業)、会計といった専門の役割を置いていて、今の企業組織に通じる分業の体制が見られる。

三菱財閥への影響

坂本龍馬が暗殺された後、海援隊は解散したが、その事業と夢は、土佐藩から海援隊に出向していた**岩崎弥太郎(いわさき やたろう)**に引き継がれた。岩崎弥太郎は、坂本龍馬の海外貿易と世界的な海援隊の計画が正しかったことを証明するかのように、後に三菱商会を作り、今の三菱財閥へと発展させた。これは、坂本龍馬がまいた近代的な経営の考え方の種が、彼が亡くなった後も着実に成長し、日本の近代化に大きく貢献したことを示している。

坂本龍馬に関するよくある質問

Q1. 坂本龍馬の身長はなぜ議論されているのか?

A1. 坂本龍馬の身長は、当時の平均身長よりかなり高かったとされているため、多くの人々の関心を集めている。しかし、当時の正確な身長を測った記録がないため、現存する写真や当時の着物などを元に、複数の研究者によって様々な推定値が出されており、これが議論の元となっている。

Q2. 坂本龍馬の妻おりょうはどんな人物だったのか?

A2. 坂本龍馬の妻おりょうは、医師の娘として生まれ、教養があったが、父の死により貧困に陥り旅館で働くことになる。寺田屋事件では機転を利かせて龍馬の命を救い、日本初の新婚旅行に行ったことでも知られている。龍馬死後は波乱の人生を送り、晩年にはアルコール依存症に苦しんだとも言われている。彼女の人生は、幕末から明治にかけての女性の生き方を象徴する存在だ。

Q3. 坂本龍馬に直系の子孫はいるのか?

A3. 坂本龍馬には実子がいないため、直系の子孫はいない。しかし、彼の家系は、姉の子どもを養子に迎えるという当時の慣習によって継承された。特に、龍馬の夢であった北海道開拓を、甥の直寛が実現するなど、血縁を超えて龍馬の思想が受け継がれていった。

Q4. 坂本龍馬の誕生日はなぜ命日と同じだとされているのか?

A4. 坂本龍馬の誕生日は、命日と同じ11月15日とされているが、実は確かな歴史的資料による裏付けはない。この説は、龍馬の妻おりょうの曖昧な証言と、後世の小説家が物語をよりドラマチックにするために創作した可能性が指摘されている。当時の日本では「誕生日」という現代的な概念自体が薄かったことも理由の一つと考えられている。

Q5. 坂本龍馬が長崎で活躍した理由はなんだったのか?

A5. 長崎は幕末の日本で唯一の海外との窓口であり、最新の情報や技術、国際的な商業が集まる場所だった。坂本龍馬はここで、イギリスの貿易商グラバーと出会い、商売の知識や国際的な視野を学んだ。また、日本初の商社である亀山社中(後の海援隊)を設立し、武器の調達や薩長同盟の仲介など、新しい日本を作るための重要な活動を長崎を拠点に行った。長崎は龍馬の「ベンチャー精神」を育んだ場所と言えるだろう。

まとめ:未来へ繋がる「志」

坂本龍馬は、短い人生の中で、日本の近代化に大きな足跡を残した。彼の身長が高く、人目を引く存在感は、彼が「英雄」として人々に認識される上で大きな影響を与えた。しかし、彼の身長の推定値に複数の説があるように、歴史上の人物についての「事実」をはっきりとさせるのは難しく、色々な解釈があることを知っておく必要がある。

彼の妻おりょうの人生は、幕末から明治にかけての激しい社会の変化の中で、女性がどれほど困難な状況に置かれていたか、そしてそれを乗り越えようとする個人の強い意志を示している。彼女の機転が龍馬の命を救った一方で、その晩年の苦しみは、英雄の物語の陰に隠されがちな個人の現実を浮き彫りにする。また、龍馬の誕生日に関する有名な話が、おりょうの曖昧な記憶と後世の創作に由来するという事実は、歴史上の「事実」がどのように物語性や人々の願望によって作られ、広まっていくかという、歴史を理解する上での深い問いを私たちに投げかけている。

坂本龍馬には自分の子供がいなかったが、彼の家は養子縁組によって「家」を大切にする当時の社会の慣習に従って受け継がれた。特に、龍馬の夢でもあった北海道開拓へと郷士坂本家が移住したことは、血のつながりを超えて彼の思想や夢が次の世代に受け継がれた象徴的な出来事と言えるだろう。

そして、長崎での活動は、坂本龍馬の新しい考え方を作り、事業を展開する上での土台となった。外国との窓口であった長崎は、彼に世界的な視点と近代的な経営の考え方をもたらし、日本で初めての商社である亀山社中(海援隊)の設立へとつながった。グラバーとの出会いや、海援隊が示した様々な事業活動は、当時の日本における近代的な企業組織の始まりであり、後の三菱財閥へと引き継がれるなど、日本の経済発展に大きな影響を与えた。

坂本龍馬の人生は、単なる政治的な功績だけでなく、その人柄や家族との関係、そして彼を取り巻く社会の移り変わりを色々な角度から考えることで、より深く理解することができる。彼の物語は、事実と物語が複雑に絡み合いながら歴史が作られる様子を映し出し、今でも多くの人々に影響を与え続けている。

坂本龍馬についてもっと深く知りたいなら、ぜひゆかりの地を訪れてみてはどうだろうか。彼の生きた時代を肌で感じ、新たな発見があるかもしれない。