北里柴三郎

千円札の肖像にも選ばれた北里柴三郎。名前は聞くけれど、具体的に何をした人かは意外と説明しづらい。感染症で命を落とす人が多かった時代、彼は目に見えない細菌を相手に「原因を突き止め、治す・防ぐ方法を形にする」ことに挑んだ。

1886年からドイツへ渡り、ローベルト・コッホのもとで研究を磨いた。そこで破傷風菌だけを増やすことに成功し、毒素に対抗する力(抗体)を利用した血清療法の道を開いた。これは後の治療や予防の考え方を大きく変える。

1894年には香港のペスト流行地へ派遣され、病原菌の報告をいち早く出した。同時期に別の研究者も発見を報告しており、当時の緊迫した現場を感じさせる出来事でもある。

帰国後は研究所をつくり、学びの場と製造の仕組みまで整えた。この記事では「北里が何をしたか」を、用語をかみくだいて整理し、いまの医療につながるポイントまで追いかける。

北里柴三郎は何をした人|研究の核心

破傷風菌の純粋培養で「原因」をつかんだ

破傷風は、けがの傷口から入った菌がつくる毒素で全身がけいれんし、呼吸が止まることもある危険な病気だ。19世紀末は致死率が高く、人びとに強く恐れられていた。

だが原因らしき菌は見えても、別の菌が混ざってしまい、単独で育てられなかった。北里はドイツ留学中、培養技術を磨き、「酸素があると増えにくい菌では?」と考えた。

そこで酸素をできるだけ排した培養環境を作り、熱に強い芽胞の性質も利用して混ざった菌を減らす工夫をした。こうした手順を重ね、1889年に破傷風菌の純粋培養に成功する。

「純粋」とは、狙った菌だけを増やして性質を確かめられる状態だ。これにより毒素の働きや、体が毒素に対抗する仕組み(免疫)を実験で追えるようになった。

ここが大事で、病原体を“扱える形”にできると、治療法や予防法は一気に現実になる。北里の突破は、血清療法の確立だけでなく、今のワクチンや感染対策の考え方にもつながる出発点になった。

血清療法の発見で「治す」を前へ進めた

純粋培養ができると、次に見えてくるのが「毒素で人が倒れるなら、毒素を無力化できないか」という発想だ。

北里は動物に毒素を少しずつ与えて抵抗力をつけ、その血液の上澄み(血清)に毒素を抑える成分があることを確かめた。ここから免疫研究が加速する。

1890年、北里はベーリングと連名で、破傷風とジフテリアの免疫が血清で移せることを発表した。これが血清療法(抗血清)の出発点になる。

感染してしまった人を助ける「治療の武器」を、理屈と実験で示したのが画期的だった。血清療法はその後、多くの命を救い、免疫の考え方を一気に広めた。

一方で、異物を入れる治療なので副反応に注意が必要で、より安全に守る方法としてワクチン開発も進む。北里の仕事は、今も抗毒素や抗血清が使われる場面に息づいている。

香港ペスト調査で「現場の感染症」と向き合った

1894年、香港でペストが大流行し、現地は混乱していた。日本政府は北里を派遣し、北里は到着後すぐに患者の検体を調べ、原因となる細菌を見つけたと報告した。

流行地での研究は時間との勝負で、設備も十分とは言えない。ほぼ同じ時期にイェルサンも病原菌を報告し、初期の報告が複数あったこと自体が当時の切迫した現場を物語る。

だからといって北里の仕事が小さくなるわけではない。流行の最前線で病原体に迫り、情報を共有し、対策へつなげようとした行動自体が大きい。

感染症は国境を越えるので、現場と研究室を結ぶ力が問われる。ペストでの経験は、後の防疫体制や研究所運営にも影響を与えたと考えられる。

北里柴三郎は何をした人|日本の医療を動かした仕組み

伝染病研究所を立ち上げ、研究の拠点を作った

北里のすごさは、研究成果だけで終わらせず、「研究が続く場」を日本に根づかせた点にもある。

帰国後、日本にも感染症を専門に扱う拠点が必要だと強く訴え、1892年に私立の伝染病研究所が動き出した。研究所はのちに国の組織として整備され、北里はその中核を担う。

研究所では病原体を調べるだけでなく、抗血清などを実際に作り、患者へ届ける流れまでつくろうとした。研究・製造・医療を一本の線でつないだわけだ。

一方で1914年、研究所が突然別の省へ移される方針が示され、北里は所長を辞任する。ここで折れず、民間の力で北里研究所を立ち上げた。

発見だけでなく「仕組みを作った人」という評価が生まれるのは、この行動があるからだ。

教育・団体・事業を通じて人と仕組みを育てた

北里は「自分が一人で成果を出す」だけでなく、次の世代が育つ環境づくりに力を注いだ。

伝染病研究所には若い研究者が集まり、研究のやり方だけでなく、現場で役立つ視点も学んだ。感染症の研究はチーム戦なので、組織の文化がものを言う。

教育面では医学教育にも深く関わり、学びの場を整える役割を担った。研究所で得た知見を教育へ流し、教育で育った人材がまた現場へ戻る。この循環ができると、国全体の医療の底力が上がる。

さらに北里は医師の団体づくりや結核予防の活動にも関わり、研究成果を社会の予防活動へつなげた。

予防を重視する思想を、実践で広げた

北里の中心にあるのは「病気になってから治す」だけでなく、「病気を起こさない」ほうへ重心を置く姿勢だ。

原因が分かれば、手洗い、消毒、隔離、ワクチンなど、守り方の選択肢が増える。北里は研究と社会の距離感をよく知り、成果を社会の行動へ変えるところまで踏み込んだ。

結核など長く国民病とされた感染症に対しても、予防活動の組織づくりに関わった。平時から備える発想は、今の社会でも古びない。

だから北里は、発見者であり、予防の思想を広めた実践者でもある。

まとめ

  • 破傷風菌の純粋培養に成功し、原因菌を正しく扱えるようにした
  • 毒素と免疫の関係を追い、血清療法(抗血清)の道を開いた
  • 1890年の共同発表が、免疫を医療に使う発想を広げた
  • 香港のペスト流行地で病原菌を報告し、感染症の最前線に立った
  • 帰国後、日本に感染症研究の拠点が必要だと訴えた
  • 1892年に伝染病研究所が動き出し、研究体制を整えた
  • 1914年に辞任後、北里研究所を設立して研究を続けた
  • 研究・製造・医療をつなぐ発想で成果を社会に戻した
  • 医学教育や医師団体づくりにも関わり基盤を広げた
  • 予防を重視する考え方を示し、公衆衛生にも影響を残した