飛鳥時代の英雄である中大兄皇子。彼は大化の改新を成し遂げ、後に天智天皇として即位したが、その最期には大きな謎が残されている。公式記録には病死と書かれているものの、実際にはそれだけで片付けられない不可解な点が多い。
当時の宮廷は、後継者争いや外交上の緊張に包まれていた。信頼していた部下の死や、対外戦争での大敗といった過酷な状況が、彼の心身を蝕んでいたことは間違いない。しかし、それ以上に衝撃的な異説が歴史の裏側に隠されている。
古い記録の中には、天皇が山へ出かけたまま戻らなかったという失踪事件のような記述も存在する。遺体が見つからず、愛用の履物だけが残されていたというエピソードは、現代の私たちに暗殺の可能性さえ予感させる。
この記事では、歴史の表舞台で語られる死因と、裏側に潜むミステリアスな伝説の両面を詳しく紐解いていく。古代史最大の謎の一つと言われる彼の最期について、真実に少しでも近づくためのヒントを探っていこう。
日本書紀が伝える中大兄皇子の死因と激務に倒れた晩年の背景
公式記録に残された病状の推移と近江宮での最期
日本書紀の記述によると、天智天皇としての彼が亡くなったのは、天智十年十二月のことだった。九月ごろから体調を崩していたとされ、近江大津宮での療養生活の末に息を引き取ったという。公式にはあくまで「病死」として扱われている。
亡くなる直前、天皇は弟の大海人皇子を枕元に呼び寄せ、国政の未来を託そうとした。しかし大海人皇子は、これが自分を試す罠ではないかと強く警戒し、出家を選んで吉野へ去ってしまう。このエピソードは、兄弟の間に深い溝があったことを示している。
天皇の正確な病名までは記されていないが、激しい痛みを伴っていたことが描写からうかがえる。現代の歴史研究者の間では、過労や内臓疾患が原因だったのではないかと推測されている。当時の厳しい政治状況が彼の身体を蝕んでいた。
死の間際まで激しい権力争いの中心にいた彼にとって、安らかな最期とはほど遠い状況だったのかもしれない。正史が描く病死の記録の裏側には、時代の転換期ゆえの重圧と、孤独な王としての苦悩が色濃く反映されているのである。
親友である中臣鎌足の死がもたらした深い精神的打撃
彼の右腕として大化の改新を共に進めてきた中臣鎌足。その親友の死は、天皇にとって単なる有能な部下の喪失ではなかった。二人は乙巳の変以来、三十年近くも苦楽を共にし、中央集権国家の理想を追い求めてきた運命共同体のような存在だった。
鎌足がこの世を去った後、天皇は政治的に大きな孤立を深めていくことになった。全ての難題を一人で判断しなければならない重圧は、彼の心身を内側から確実に削っていった。信頼できる唯一の相談役を失った孤独は、計り知れない。
鎌足の死を悼む天皇の悲しみは、歴史書にも深く刻まれている。彼は葬儀の場で泣き崩れたと伝えられている。この精神的なショックが、寿命を縮める大きな引き金になったという説は、現代でも非常に説得力を持っている。
心の支えを失った後の彼は、周囲への疑いも強まっていったようだ。孤独な指導者としての葛藤が、病魔を引き寄せる一因となったことは想像に難くない。鎌足の不在こそが、崩御へのカウントダウンの始まりだったと言えるだろう。
白村江の戦いによる敗北と過酷な国防事業による心身の疲弊
天智天皇の治世における最大の危機は、白村江の戦いでの壊滅的な敗北だった。唐と新羅の連合軍に敗れた日本は、いつ他国の侵略を受けてもおかしくないという、国家存亡の危機にさらされることになった。この敗戦の責任は、誰よりも彼自身が感じていたはずだ。
天皇は敗戦後、国を挙げての防衛網の整備に乗り出した。九州から近江にかけて水城や山城を築かせ、防人を配置するなど、その事業規模は国家を疲弊させるほどだった。同時に、近江大津宮への遷都という大規模な計画も、強硬に進められた。
これらの過酷な事業を陣頭指揮し続けた天皇の労苦は、想像を絶するものだった。民衆の不満や豪族たちの反発も強まる中で、彼は絶え間ない精神的な緊張を強いられていた。寝る間を惜しんで国造りに奔走する日々が、健康を著しく損なった。
敗戦という重い過去を背負いながら、未来の日本を守るために命を削った時間は、彼の寿命を奪うには十分だった。過労死と言っても過言ではないほど、彼は国家の再建にすべてを捧げていたのである。
中大兄皇子の死因にまつわる山科の失踪伝説と暗殺説の真実
扶桑略記に記された山科での神隠しと残された沓の謎
平安時代の歴史書である扶桑略記には、日本書紀の記述とは正反対の不可解な伝説が残されている。それによると、天皇は十二月三日に馬に乗って山科の郷へと出かけたまま、そのまま行方不明になったという。一国の主が忽然と姿を消したのである。
兵士たちが山を捜索したところ、道端には天皇が履いていた片方の沓だけが落ちていた。遺体はどこを探しても見つからず、ついにその沓が落ちていた場所を天皇の墓としたというのが、山科にある御陵の由来の一つである。
この神隠しのようなエピソードは、宮中で病死したとする公式記録と真っ向から対立している。なぜ天皇は一人で山へ向かったのか、あるいは無理やり連れ去られたのか。履物だけが残されているという状況は、あまりにも不気味だ。
失踪伝説は、天皇の最期が公にはできないような事件であったことを示唆している。当時の不安定な政情を考えれば、山科の深い森で予期せぬ悲劇が起きたとしても不思議ではない。この空白の数時間は、今も歴史の闇に包まれている。
万葉集の挽歌に刻まれた魂の彷徨と葬儀記録の不自然さ
天皇の妻である倭姫王が詠んだ万葉集の挽歌には、彼の死の異常性を物語るような一節がある。その歌の中では、天皇の魂が山科の木幡の上をさまよっている様子が描かれている。魂は見えるのに、姿が見えないという嘆きは、何を意味するのか。
もし天皇が宮中で看取られ、正式な葬儀が行われたのであれば、魂が遠く離れた山中の空をさまようのは極めて不自然だ。これは、遺体が宮中に存在しなかった状況を暗示していると解釈できる。和歌は、当時の人々の偽らざる実感を映し出している。
また、日本書紀には他の天皇には必ずあるはずの、葬儀に関する詳細な記録が欠落している。埋葬の日付や儀式の様子が記されていないのは、歴史書としては異例中の異例である。書きたくても書けない事情があったと考えるのが自然だろう。
遺体が見つからないまま行われた、形ばかりの供養。そんな虚無感が、倭姫王の歌からは伝わってくる。公式記録が沈黙を守る中で、文学作品だけが「天皇は本当はどこで亡くなったのか」という切実な問いを後世に投げかけている。
天武天皇との確執と名前に隠された権力闘争のメッセージ
中大兄皇子の死後、彼の息子である大友皇子と弟の大海人皇子の間で壬申の乱が勃発した。この骨肉の争いは、生前から始まっていた深刻な確執が表面化したものだ。天皇の死後、実質的に政権を握った大海人皇子の存在は、暗殺説を補強する大きな要素となっている。
二人の関係は、死後に贈られた名前にも反映されているという説がある。天皇に贈られた「天智」という名は、中国の歴史上で悪名高い暴君を象徴する言葉に由来すると言われる。一方、勝者である「天武」は、その暴君を討った正義の王を指しているというのだ。
これは、天武天皇側が「兄を暴君として排除した」というメッセージを歴史に残そうとした意図があるのかもしれない。もし暗殺が行われていたならば、こうした名前の対比は自分たちの行為を正当化するための高度な演出だったと考えられる。
兄弟の対立は、単なる感情のもつれではなく、国を二分する大きな権力抗争だった。天皇が不自然な死を遂げたことで、最も利益を得た人物は誰だったのか。その答えを辿っていくと、歴史の深い闇に隠された真実の姿がおぼろげに見えてくる。
まとめ
-
日本書紀では、天智十年十二月に大津宮で病死したとされる。
-
死の直前に後継者問題で弟の大海人皇子と対立していた。
-
親友である中臣鎌足の死が健康状態に悪影響を与えた。
-
白村江の戦いでの大敗と国防の重圧が心身を疲弊させた。
-
扶桑略記には、山科の山中で行方不明になったとの記載がある。
-
山科の道端で愛用の沓だけが見つかったという伝説が残る。
-
妻の倭姫王が詠んだ歌には、遺体がないことを思わせる節がある。
-
日本書紀に葬儀の具体的な記録がないのは極めて不自然である。
-
勝者である天武天皇側による暗殺の可能性が古くから囁かれる。
-
諡号の「天智」と「天武」の対比に権力闘争の影が見える。


