東京・大手町の高層ビルの谷間に、小さな緑地がぽつんと残っている。そこが平将門の首塚だ。昼休みの通勤者と手を合わせる人が同じ道で交差し、思わず足を止めたくなる不思議さがある。
将門は平安時代中期の争乱で名を残した関東の武士だ。「新皇」を名乗ったことが朝廷の怒りを買い、天慶3年(940)に討たれたとされる。首は都で晒されたという記録があり、やがて東国へ戻ったという伝承が加わった。
首塚には「動かせない」「粗末に扱うと不幸が起きる」といった話が多い。震災後の復興や官庁街の整備の時期に、事故や不運の話が重なり、たたりとして語られてきた面もある。今も噂は消えない。信じ方は人それぞれだ。
一方で、首塚は文化財として指定され、保存のための体制もある。歴史の記録と後世の物語を切り分けつつ眺めれば、怖い噂だけでは見えない価値が浮かぶ。歴史好きでなくても、都心の時間の積み重なりを肌で感じられるはずだ。
平将門の首塚の場所と現地で見えるもの
どこにあるか:アクセスと目印
平将門の首塚は、東京都千代田区大手町の一角にある。皇居の東側に広がる官庁街・オフィス街の中心だ。
住所表記は大手町一丁目周辺で、ビルの敷地に挟まれる形で緑地が残る。近くに大きな通りがあるので迷いにくい。
最寄りは大手町駅で、地上に出て数分で着く。東京駅側から丸の内を抜けて歩く場合も、10分前後の散歩になる。
目印になりやすいのは、周辺の大きな企業ビルやホテルだ。案内板が出ていることもあり、角を曲がると突然小さな空間が現れる。
周囲は車道と高層ビルに囲まれているが、塚の周りだけ柵と植栽で区切られ、短い参道のような導線が作られている。
昼の時間帯は人通りが多く、朝夕は比較的落ち着く。どの時間でも、立ち止まる人の流れを妨げない位置取りだと安心だ。
地図で見ると小さな点に見えるのに、現地では意外と存在感がある。都心の速度の中で、時間の層が一段だけ厚くなる感覚が残る。
道を挟んで近代的な建物が並ぶので、視線を上げ下げしてみると面白い。歴史が都市に埋め込まれている実感が湧く。
現地の見どころ:塔婆・石灯籠・石碑
敷地に入ると、中心に板石塔婆(いたいしとうば)が立つ。表面には阿弥陀仏名や年号が刻まれ、供養の性格をはっきり示す。
現在見られる塔婆は、過去に損壊や盗難があったあと、昭和期に再建されたものとされる。刻字は徳治2年(1307)の供養に由来する形を意識しているという。
塔婆のそばには石灯籠や石碑があり、塚が「伝説の地点」であると同時に、保存対象として扱われてきたことが分かる。
大きな社殿があるわけではない。だからこそ、石と木と土の組み合わせが際立ち、都会の中の小さな聖域のように見える。
花が手向けられていることも多く、訪れる人の距離感はさまざまだ。願掛けというより、手を合わせて通り過ぎる人もいる。
見学の時間は長くなくていい。足元の表示や案内を読み、周囲のビル群との対比まで含めて眺めると、この場所の特別さが掴みやすい。
案内を読むと、いつ誰が残そうとしたかも浮かぶ。石を「怖いもの」と見るより、長く守られた資料として眺めると落ち着く。
平将門の首塚の由来と伝承の読み解き
将門の乱と首の行方:史実と伝承を分ける
平将門は、関東で勢力を伸ばし国府を襲うなどして朝廷と対立した。自らを「新皇」と称したことが決定打となり、追討軍が組まれた。
この一連の争いは承平・天慶の乱とも呼ばれ、東国社会の変化と結びつけて語られる。中央の支配と現地の利害がぶつかった。
天慶3年(940)2月14日、将門は平貞盛・藤原秀郷らとの戦いに敗れて討たれたと伝わる。終焉の地は猿島郡北山周辺とされることが多い。
討ち取られた首が都へ送られ晒されたという話は、複数の記録や後世の書物で繰り返される。ここまでは史実として扱われやすい部分だ。
首塚の起源は、地域の人々が恐れを鎮めようとして供養の場を設けた、という形で語られる。後に寺や社の成立と結びつく説明もある。
一方、首が東国を恋しがって夜空を飛び、現在の大手町付近に落ちたという筋立ては伝承である。中世の軍記や説話が物語性を強めたと考えられる。
史実は「どこで、誰が、いつ討ったか」を語り、伝承は「なぜ恐れられ、なぜ祀られたか」を語る。両方を分けて読むと、首塚が記憶の容器になった理由が見えてくる。
怨霊の像が固まるまで:中世の語りと鎮魂
将門が「怨霊」として恐れられる像は、最初から固定されていたわけではない。時代が下るにつれ、語りが重なって輪郭が濃くなった。
中世の軍記や説話では、晒された首が目を閉じず言葉を発した、という筋立てが語られる。恐ろしさは、死者の無念を象徴する装置でもある。
こうした霊威の語りは、社会不安や災害と結びつきやすい。原因が分からない出来事に意味づけを与え、人々の心を落ち着かせる役割もあった。
御霊信仰は、敵味方を越えて死者を慰め、災いを遠ざけたいという感情と結びつく。将門もその枠組みで受け止められた。
首塚周辺で天変地異が続いたとする伝承があり、徳治2年(1307)に真教上人が鎮魂し「蓮阿弥陀仏」の諡号を贈ったと伝える。
さらに延慶2年(1309)には、将門を神田明神に奉祀したという社伝がある。恐れを祀りに変える発想が、都の宗教文化の中で形になった。
怨霊の話は怖いが、そこには共同体の知恵もある。排除するのではなく、場を整え、名を与え、祀ることで折り合いをつけたのだ。
近代の「たたり」語り:震災復興と都市開発
首塚の話が近代に再び注目された大きなきっかけは、関東大震災後の復興期だ。塚が損壊し、周辺の整備が進められた。
その過程で、官庁の施設建設などをめぐり、工事関係者や関係者に不運が続いたと語られる。これが「動かせない」というイメージを強めた。
実際には、震災復興の現場は事故も病気も起きやすい。首塚との因果を証明する材料は乏しく、断定できる話ではない。
ただし、当時の社会がこの場所を気にしていたこと自体は確かだ。首塚を慰霊する行事が官庁で行われたという記録も残っている。
こうした経緯が積み重なり、再開発のたびに首塚が話題になる構図が出来上がった。結果として、都市の変化の中で首塚が残る理由にもなった。
だから計画の側も、完全に無視するより折り合いを探す。移設より現地保存が選ばれやすいのは、その心理も働くからだ。
噂を怖がりすぎる必要はないが、笑い飛ばすだけでも足りない。人の記憶が集まった地点として、慎みを持って扱われてきた場所だ。
まとめ
- 平将門の首塚は東京・大手町の都心に残る小さな史跡だ。
- 最寄りは大手町駅で、ビルの敷地に挟まれた緑地として現れる。
- 中心の板石塔婆は供養の象徴で、年号や諡号の伝承と結びつく。
- 大きな社殿はなく、石と植栽がつくる静けさが特徴だ。
- 参拝は短く丁寧に。柵を越えず、周囲の通行にも配慮する。
- 首塚は東京都の指定旧跡で、制度と保存活動によって守られている。
- 将門は天慶3年(940)に討たれ、首が都で晒されたという話がある。
- 首が東国へ戻ったという筋立ては伝承で、物語として発展した。
- 震災復興期の不運の話などが「動かせない」イメージを強めた。
- 史実と語りを分けて捉えると、首塚が残る理由が理解しやすい。



