「雨ニモマケズ」は、宮沢賢治が病床近くで使っていた手帳に鉛筆で書き残したとされる遺稿だ。詩として親しまれてきたが、最初から発表を前提に整えた作品というより、心のメモに近い。短いのに覚えやすく、読む人の状況に合わせて意味が立ち上がるため、長く読み継がれてきた。
本記事では、原文の全文と、読みやすく整えた表記、現代語訳をそろえたうえで、意味を一節ずつほどいていく。むずかしい語や表記(慾・瞋・䕃・ヰなど)も、できるだけかみくだいて説明する。
「がんばれ」という根性論だけで終わらないのが、この作品の大事な点だ。弱っている人へ手を差し出す具体的な行動と、自分を大きく見せない姿勢が、同じ息づかいで並んでいる。だからこそ、読む側の生活にすっと入り込む。
最後まで読むと、暗唱しやすい区切り方や、よく出る疑問(ヒデリ/ヒドリ、カタカナの理由、引用してよいか)も整理できる。気になる見出しから拾い読みしてほしい。
宮沢賢治の雨ニモマケズ|全文(原文)
原文(漢字+カタカナ)全文
以下は、原文の雰囲気が伝わる「漢字+カタカナ」表記の全文だ。改行は読みやすさのために入れているが、語そのものは底本に基づく。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ䕃ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
読みやすい表記(ひらがな・漢字まじり)
原文は漢字とカタカナ中心で、慣れないと読み進めにくい。ここでは意味を変えずに、ひらがな・漢字まじりに直し、句読点と改行を足して読みやすくした。
雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体をもち、欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている。
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ、あらゆることを自分の勘定に入れずに、よく見聞きし分かり、そして忘れず。
野原の松の林の蔭の小さな萱ぶきの小屋にいて、東に病気の子どもがあれば行って看病し、西に疲れた母があれば行ってその稲の束を負う。
南に死にそうな人があれば行って「こわがらなくてもいい」と言い、北にけんかや訴訟があれば「つまらないからやめろ」と言う。
日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなに「でくのぼう」と呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、そういう者に私はなりたい。
なお、原稿・底本によって語の表記に差がある箇所がある。気になる点は後半のQ&Aで整理する。
難しい字・表記の補足(慾・瞋・䕃・ヰなど)
原文には、今では見慣れない字や表記が混じる。意味が止まるときは、まず「音」と「だいたいの意味」だけ押さえれば十分だ。
「慾」は「欲」の旧字で、欲望の「よく」。一方「瞋」は「いかる(怒る)」の意で、仏教では怒りの心(瞋恚)を指す語としても使われる。ここは「決して怒らない」くらいの理解で読める。
「䕃」は「蔭」の異体字で「かげ」。また「萱ブキ」は「かやぶき」で、草で屋根をふいた小屋のことだ。「ヰ」は古い「ゐ」の表記で、現代なら「い」に近い。
ほかにも「ケンクヮ(けんか)」のようなカタカナ表記や、「イヽ」のように同じ字を繰り返す記号が出る。声に出して読むと意味がつかみやすい。
「デクノボー(木偶の坊)」は本来「操り人形」や「役に立たない人」という意味の語だが、詩では「ほめられない/苦にもされない」生き方と結びつき、評価の外側に立つ決意として響く。
宮沢賢治の雨ニモマケズ|現代語訳
現代語訳(全文)
雨にも風にも雪にも、夏の暑さにも負けない体でいたい。欲に振り回されず、怒りに飲まれず、騒がず、いつも静かに笑っていられる人でありたい。強がるというより、折れない心の整え方を求めている。
毎日の食事は、玄米と味噌と少しの野菜で十分だ。派手さよりも、続けられる生活を選ぶ。そのうえで、物事を「自分の都合」だけで計算しない。目の前の出来事をよく見て、よく聞いて、理解し、そして忘れない姿勢を持ちたい。
暮らす場所は、松林の影の小さな草ぶき小屋のような、ささやかな所でいい。病気の子がいれば行って看病し、疲れた母がいれば稲の束を運ぶ。死にそうな人がいれば「怖がらなくていい」と声をかけ、争いごとには「つまらないからやめよう」と言える人でいたい。
日照りのときは涙を流し、寒い夏にはおろおろ歩くような弱さも抱える。それでも、周りから「でくのぼう」と呼ばれても、ほめられなくても、気にかけられなくても揺らがず、そういう人間になりたい。
超かんたん要約(4行)
全文をいきなり読み解くのが大変なら、まず「何を理想にしているか」を一枚のメモのように把握すると楽になる。下は、意味をねじ曲げない範囲で、内容の柱だけを4行に圧縮した要約だ。原文の言い回しを味わう前の入口として使ってほしい。
自然の厳しさに負けない体を整え、欲や怒りに振り回されない心でいたい。
自分の損得をいったん脇に置き、よく見聞きして理解し、忘れないでいたい。
弱っている人がいれば足を運んで助け、争いごとは「つまらない」と言って止めたい。
ほめられるためではなく、苦にもされないほど静かに、それでも「そういう者になりたい」と願う。
この4行を先に入れておくと、後で一節ずつ読むときに「どこが体・心・行動・評価の話か」が見えやすくなる。たとえば「玄米四合」は生活の質素さ、「でくのぼう」は評価から距離を置く姿勢、といった具合に焦点が定まる。要約だけでは伝わりにくいリズムや言葉の硬さは、ぜひ原文で確かめたい。
現代語訳で押さえる3つのポイント
現代語訳を読むとき、理解がぶれにくくなる「押さえどころ」が3つある。1つ目は全体の流れで、「体→心→行動→評価」の順に並ぶ。最初に土台(丈夫な体)を置き、次に内面(欲・怒り)を整え、そこから助けの具体例へ進み、最後に他人の評価を手放して締める構造だ。結末が「私はなりたい」で願い形になるのも重要だ。
2つ目は「自分の勘定に入れず」の重さだ。自己犠牲を美化する合言葉というより、「損得・体面・怒り」といった自分側の計算をいったん外して見る、という姿勢に近い。だから「よく見聞きし分かり、そして忘れず」が続く。見る→聞く→分かる→忘れない、が連続するのは偶然ではない。
3つ目は、理想像の中に弱さも書き込んでいる点だ。「日照りのときは涙」「寒さの夏はおろおろ」は、主人公が超人ではないことを示す。助ける側でも揺れるし、迷う。けれど、病気の子や疲れた母へ足を運ぶ方向だけは外さない――その現実味が、この作品を説教ではなく祈りにしている。
宮沢賢治の雨ニモマケズ|意味(一節ずつ)
「雨にも負けず…丈夫なからだ」=理想の土台
冒頭の「雨にも負けず…」は、自然の厳しさに耐える宣言に見える。だが続く「丈夫な体」「欲はなく」「決して瞋らず」で、目標が単なる体力ではなく、心身の整え方だと分かる。天候の列挙が先に来るのは、理想が現実の環境と切り離せないことを示すためだ。
ここで大切なのは、「負けない=勝つ」ではない点だ。勝ち負けのゲームから降り、環境が荒れても自分の軸を崩さない、という意味合いが強い。だから「いつも静かに笑っている」が置かれる。感情を押し殺すのではなく、揺れたあとに戻れる場所を作る感じだ。丈夫とは、折れにくさのことでもある。
さらに「丈夫な体」は、何かを打ち負かすための武器ではなく、誰かを支えるための土台として読める。助けに行く場面が続く以上、この体は「やさしさを実行する体」でもある。
この導入を押さえると、後半の「東に病気の子ども…」が、善意の気分ではなく、整えた軸から自然に出てくる行動として立ち上がる。毎日の中で。
「東に病気の子ども…」=行動で助ける
中盤の「東に病気の子ども…西に疲れた母…南に死にそうな人…北にけんかや訴訟…」は、方角で場面を切り替えながら、助けの具体例を連打する部分だ。ここがあることで、理想が抽象論で終わらない。
東西南北と並べることで、「助けは特別な場所だけで起きるのではなく、どこにでもある」と示している。読む側の暮らしの地図に、そのまま刺さる作りだ。
注目したいのは、助け方が派手ではない点だ。看病する、稲の束を負う、声をかける、争いを止める。どれも「すぐ目の前の一歩」で、英雄的な救済ではない。だからこそ現実の生活に移し替えやすい。
また「こわがらなくてもいい」と言うのは、相手の感情を否定する言葉ではなく、恐怖の中にいる人へ寄り添うための短い灯のように響く。同じように「つまらないからやめろ」は、正しさの裁判ではなく、争いの熱から距離を取らせる言い方だ。
この連続は、「自分を勘定に入れず」の実践編でもある。気分が乗るかどうかではなく、必要がある所へ体を運ぶ――その具体性が、作品全体の説得力になっている。
「みんなにデクノボー…」=評価より良心
終盤の「みんなにデクノボーと呼ばれ/ほめられもせず/苦にもされず」は、読者が一番引っかかる場所かもしれない。普通なら、ほめられたいし、無視されたくもない。なのにここで、語り手は評価の土俵から降りる。
「デクノボー(木偶の坊)」は一般には「役に立たない人」という侮りの言葉にもなる。それでも語り手は、その呼ばれ方を受け入れる。ここは卑下ではなく、「善行を名誉に換えない」決意として読める。
ポイントは「苦にもされず」だ。敵視されるほど目立つのでもなく、称賛されるほど目立つのでもない。つまり、他人の視線の中心に立たない。助けても、恩を着せない。怒らないのも、勝つためではなく、関係を壊さないためだ。
そして最後の「そういう者に私はなりたい」で、断言ではなく願いに変わる。できない日がある前提で、それでも向かう方向を置く。理想が生活の中で更新され続ける形になっている。少しずつ。
宮沢賢治の雨ニモマケズ|重要語句
「デクノボー」って何
「デクノボー」は、辞書的には「木偶(でく)」=操り人形、転じて「役に立たない人」「気のきかない人」などを指す言葉だ。日常会話では、相手をけなす響きが強い。
しかし「雨ニモマケズ」では、その直前に「日照りのときは涙」「寒さの夏はおろおろ」と、弱さや迷いが描かれる。ここでのデクノボーは「完璧な聖人」ではなく、揺れる自分を含めた姿の名前だ。
さらに「ほめられもせず/苦にもされず」が続くことで、意味が反転する。役に立つかどうかの物差しや、評価の視線から距離を取りたい、という決意が前に出る。だからこれは「他人の点数で自分を決めない」宣言でもある。
宗教的な読みでは、法華経の「常不軽菩薩」と重ねて語られることもある。人を見下さず、罵られても相手を敬う姿勢と、ここでの「怒らない/ほめられない」が響き合う。
言い換えるなら、「目立たず、誇らず、必要なときに手を出す人」。侮りの言葉を、理想像のラベルに作り替えるところに、この作品の強さがある。
「慾はなく」「決して瞋らず」
「慾ハナク/決シテ瞋ラズ」は、短いのに重い。ここで言う「慾」は「欲」の旧字で、欲望・執着のことだ。生活に必要なものまで否定するというより、「欲に引っぱられて判断がゆがむ状態」から距離を取る響きがある。
「瞋」は「いかる(怒る)」の意で、仏教では怒りの心(瞋恚)を指す語としても使われる。つまり「決して瞋らず」は、単に温厚というより、怒りが起きる状況でも、それに支配されないという意思表示だ。
この二つが並ぶことで、理想像は「感情がない人」ではなく、「感情を扱える人」になる。怒りや欲は誰にでも湧く。だからこそ、静かに笑う、という表現が効いてくる。笑いは勝ち誇る笑いではなく、落ち着きのサインだ。
日常に置き換えるなら、「比較で心が荒れそうなときに、まず呼吸を整える」みたいな実践が近い。外の騒ぎより、内側の軸を優先する姿勢が、この一行に詰まっている。
「玄米四合と味噌と少しの野菜」
「一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ」は、食事の描写なのに強く記憶に残る。ここは「質素に暮らす」だけでなく、生活のリズムを自分で引き受ける宣言としても読める。
「四合」は量として多く感じる人もいて、「本当に毎日?」と話題になりやすい。だが、この一行の狙いは栄養計算の正確さより、派手さを避けた生活の感触だ。数字が具体的だからこそ、理想が空想ではなく日課に見える。玄米・味噌・野菜という並びは、豪華さよりも持続性を指している。
また、食を質素にすることで、欲や怒りを煽る刺激を減らし、「よく見聞きし分かり、忘れず」に向かう余白が生まれる。食は心の入口でもある、という考え方だ。賢治の理想像は、精神論だけでなく、毎日の手触りから作られている。
読む側は、四合をそのまま真似する必要はない。自分の生活で「欲を増やしすぎない仕組み」をどこに置くか――その問いとして受け取ると、現代でも生きる一行になる。
宮沢賢治の雨ニモマケズ|いつ書かれた?背景
手帳に書かれた遺稿(1931年ごろ)
「雨ニモマケズ」は、賢治が生前に発表した詩集に収めた定稿ではなく、手帳に書かれた覚え書きとして残った作品だ。手帳のページ上部に青鉛筆で「11.3.」と書き込みがあるため、1931年(昭和6年)11月3日ごろの記述と推定されている。
当時の賢治は病を抱えつつ、生活や仕事の計画、祈りの言葉なども手帳に書き付けていたとされる。その中の一ページに、この文章がまとまって記されている。いわゆる「作品」よりも「自分に向けた確認」の色が濃い。
だからこそ、命令形ではなく願い形で終わる。「こうしろ」と言うのではなく、「こうありたい」と置く。読む側も、正解を押しつけられる感じが薄く、自然に自分の生活へ引き寄せて読める。
なお、手帳の文字は漢字とカタカナが混じり、異体字も使われる。後から活字化される過程で表記差が生まれた点も、背景として知っておくと混乱しにくい。
広まったのは没後(新聞掲載など)
この文章が広く知られるようになったのは、賢治の死後だ。1934年(昭和9年)に、岩手日報に掲載されたことが初期の公表として挙げられる。
没後に発表されたため、受け取り方も時代によって揺れてきた。努力や忍耐を励ます言葉として引用されることもあれば、弱い人に寄り添う態度として読まれることもある。原文が「手帳の一ページ」だったことを踏まえると、単一の教訓に閉じ込めるより、複数の角度で読むほうが自然だ。
また、活字化と再録の過程で、表記や一部の語(たとえば「ヒデリ/ヒドリ」)が版によって異なることがある。引用するときは、どの版を底本にしたかを明記すると誤解が減る。
青空文庫の図書カードでも、底本として『新校本 宮澤賢治全集』の巻と版が示されている。読む・引用する際の手がかりとして確認しておくと安心だ。
なぜカタカナで書かれている?
原文がカタカナ中心なのは、「特別な演出」だけではなく、当時の書き言葉の環境とも関係する。戦前の初等教育では、仮名はカタカナを先に学ぶ「カタカナ先習」が一般的だった。
そのうえで賢治自身も、手帳やメモに漢字+カタカナで書くことが多かったとされる。『雨ニモマケズ』は、そうした「書きつけ」の延長として読むのが自然だ。
読み手としては、カタカナを現代のひらがな感覚に置き換えてみるとよい。強調というより、記録の筆致に近い。声に出して読むと、硬さがほどけて意味が流れ込みやすくなる。ゆっくり。
宮沢賢治の雨ニモマケズ|どう読む?鑑賞のコツ
「私はなりたい」まで主語が出ない効果
この文章は、冒頭からしばらく「私は」を出さない。雨、風、雪、暑さ、丈夫な体、欲、怒り、食事、見る聞く――と条件や習慣が積み重なり、最後の最後に「ワタシハナリタイ」が現れる。
この作りの効果は二つある。一つ目は、読む側が自然に主語の席に座ってしまうことだ。「こうでありたい」と言われる前に、「自分ならどうか」を無意識に入れてしまう。だから短いのに刺さる。
二つ目は、理想像が一気に提示されるのではなく、生活の積み重ねとして見える点だ。理想は気分ではなく、習慣の束でできている。玄米や味噌のような具体が途中に入るのも、そのためだ。
読むときは、「…負けず」で一度息を継ぎ、「丈夫な体」「欲はなく」「決して怒らず」と短く区切ると流れが整う。助けの場面に入ったら、方角ごとに一拍置くと意味が立つ。
もし暗唱するなら、「自然→心身→食事→認知→暮らし→助け→弱さ→評価→願い」という順序を意識すると覚えやすい。主語が出る瞬間が、着地の合図になる。
反復が生むリズムと強さ
声に出すと気づくが、この文章は反復でできている。「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」「東ニ…アレバ/行ッテ…」のように、同じ型を繰り返しながら少しずつ内容を変えていく。
反復は、意味を強調するだけでなく、読む側の呼吸をそろえる働きがある。リズムが一定だと、言葉が「考える」より先に身体に入る。カタカナの硬さも相まって、打楽器のように区切りが立つ。だから暗唱に向くし、困ったときにふっと口をつく。耳で覚えやすい。
さらに、反復は理想を「一回きりの決意」ではなく「何度でも選び直すもの」に見せる。「負けず」と言い切りながら、実は同じ選択を日々繰り返している、という感触が残る。
読む練習では、反復の型ごとに印を付けるとよい。負けず(自然)、〜タベ(食)、ヨクミキキ(認知)、行ッテ(行動)、ホメラレモセズ(評価)。型が見えると、意味も立体になる。自然にね。
今の生活に置き換える読み方
この作品を「昔の立派な人の言葉」で終わらせないコツは、具体を自分の場面に差し替えることだ。たとえば「東に病気の子ども」が、家族の不調や友人の落ち込みに置き換わる。看病は、病院へ付き添うだけでなく、連絡を入れて話を聞くことでもいい。
「北にけんかや訴訟」は、職場や学校の揉め事、ネット上の言い争いとして読める。ここでの「つまらないからやめろ」は、正論で殴るのではなく、火に油を注がない選択だ。関わらない勇気、と言ってもいい。
さらに「玄米四合と味噌と少しの野菜」は、豪華さよりも「続けられる生活」を選ぶ比喩として使える。買い物、睡眠、時間など、欲を増やしすぎない仕組みをどこに置くか、という問いになる。
「自分を勘定に入れず」も自己否定ではない。損得で動くクセに気づき、いったん距離を置く技術だ。結果として相手の状況が見えやすくなる。だから「よく見聞きし分かり」が続く。
最後の「私はなりたい」は、完璧宣言ではない。今日できなくても、明日もう一度選び直す。そう読むと、この文章は“目標”より“方角”として役に立つ。
宮沢賢治の雨ニモマケズ|よくある質問
「ヒデリ」か「ヒドリ」か?
「ヒデリ(旱り)」か「ヒドリ」かは、よく聞かれる疑問だ。活字化された本文では「ヒデリ」が広く流通している一方、手帳の読みや底本の扱いによって「ヒドリ」とされる版もある。
本記事の原文掲載は、一般に参照しやすい活字本文に合わせて「ヒデリ」を採った。ただし、どちらが「正しい」と断定するより、手帳という資料の性質上、読み取りや校訂で差が出うる点を知っておくほうが大事だ。
この作品には「䕃」のような異体字もあり、表記差はこの一箇所に限らない。大切なのは「乾いた季節(旱り)のつらさに涙する」という心の動きだ。
引用やレポートで厳密に扱う必要がある場合は、使用した版(青空文庫、全集の何巻、掲載紙など)を明記するとよい。そうすれば、表記差があっても「どこから引いたか」がはっきりする。
暗唱のコツは?
暗唱のコツは、「長い一文」として覚えず、反復のまとまりで区切ることだ。原文は型の繰り返しが多いので、型ごとにブロック化すると覚えやすい。
おすすめの区切りは、①自然(雨・風・雪・暑さ)②心身(丈夫・欲・怒り・静かに笑う)③食(玄米・味噌・野菜)④見る聞く(勘定に入れず/よく見聞き)⑤住まい(松林の蔭の小屋)⑥助け(東西南北)⑦弱さ(日照り・寒さの夏)⑧評価(デクノボー以下)⑨願い(私はなりたい)だ。
練習は、まず③までを声に出して固定し、次に④⑤を足す。次に⑥(東西南北)は方角ごとに一息で読む。最後に⑦⑧⑨をつなげる。段階を踏むと失敗しにくい。
可能なら自分の音読を録音し、移動中に聞き返すと早い。リズムが身体に入ると、言葉が勝手に次へ出てくる。
覚えたら、意味を思い浮かべながら読むと抜けにくい。「稲の束を負う」は運ぶ動作、「つまらないからやめろ」は争いの熱を冷ます言葉、とイメージを添えると定着する。
引用・全文掲載していい?
結論から言うと、『雨ニモマケズ』そのものは日本では著作権保護期間が満了している可能性が高く、全文掲載自体は一般に問題になりにくい。日本の保護期間は原則「著作者の死後70年」と整理されており、賢治は1933年に亡くなっている。
ただし、ネット上で便利に読める形に整えた「データ」には、別の配慮が必要になることがある。たとえば青空文庫は、著作権が切れた作品や権利者が公開に同意した作品を収録すること、また利用規準やリンク規準があることを案内している。
ブログで扱うなら、安全策として①出典(底本や青空文庫、全集名など)を明記する、②全文を貼る場合も改変箇所(改行・表記整形など)を示す、③現代語訳は自作の文章として書く、の3点を守るとよい。
迷ったら「引用」は必要最小限にし、本文より解説・感想の比率を高めるのが無難だ。法的な最終判断が必要な案件(商用大規模転載など)は、専門家に確認してほしい。
子どもに説明するときの言い換えは?
子どもに説明するときは、難しい語を「行動のことば」に置き換えると伝わりやすい。たとえば「負けない」は「つらい日でも、やることを投げ出さない」。「欲はなく」は「ほしい気持ちに振り回されない」。そして「怒らない」は「イラッとしても、すぐに人を傷つける言い方をしない」と言える。
「自分を勘定に入れず」は少し難所だ。ここは「自分の都合だけで決めない」「相手のことも考えて決める」くらいで十分だ。すると「よく見聞きして分かる」が自然につながる。
助けの場面は、具体例を出すと分かりやすい。病気の子=体調の悪い友だち。疲れた母=家で忙しい人。死にそうな人=元気がない人。争い=けんか。どれも身近に置き換えられる。
最後の「デクノボー」は、「ほめられなくてもいい、目立たなくてもいい。それでもやさしくしたい」という意味として説明すると、侮り言葉の角が取れる。たとえば「見返りがなくても手伝う人」と言い換えるとイメージしやすい。
宮沢賢治の雨ニモマケズ|まとめ
- 『雨ニモマケズ』は手帳に書かれた遺稿で、発表を前提に整えた定稿とは性格が異なる。
- 原文の反復(負けず/行ッテ…)が、暗唱しやすいリズムと強い印象を作る。
- 「丈夫な体」は勝つための武器ではなく、助けを実行するための土台として読める。
- 「慾」「瞋」「䕃」など、旧字・異体字があるが、音と大意を押さえれば十分読める。
- 現代語訳では「体→心→行動→評価→願い」の流れが見えると理解がぶれにくい。
- 東西南北の連打は、助けがどこにでもあることを示し、抽象論で終わらせない。
- 「デクノボー」は侮り言葉を引き受け、評価の外側で生きる決意へ反転させる。
- 「玄米四合…」は派手さより持続性を選ぶ生活感覚を象徴し、現代では「欲を増やしすぎない仕組み」として読める。
- 表記には版差(ヒデリ/ヒドリなど)があるため、引用時は底本・出典を明記すると安心だ。
- 著作権は原則「死後70年」で、賢治(1933年没)作品は公開・利用の前提を確認しつつ扱うとよい。



