
「平賀源内と蔦屋重三郎」と聞いて、どんなイメージを抱くだろうか。前者はエレキテルの復元や本草学の発展などで知られる発明家・奇才のイメージが強いし、後者は浮世絵や戯作の数々を世に送り出した江戸の出版人(いわば“ヒットメーカー”)として名高い。2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』によって、一気に注目が集まりそうな人物でもある。
しかし、この二人は本当にどこまで関わりがあったのだろう? 「そもそも、平賀源内って何者?」「蔦屋重三郎と一緒に仕事をしたって本当?」「どんな場面で二人は接点をもったの?」といった疑問は多いはずだ。本記事では、平賀源内と蔦屋重三郎にスポットライトを当て、彼らの生涯・業績・人間関係、さらには二人がどのように交わり、どんな仕事を残したのかを徹底的に深堀りする。読めば、あなたの中で二人のイメージが一変するかもしれない。
この記事を読むメリットは以下のとおりである。
- 平賀源内と蔦屋重三郎のプロフィール、業績、人間関係の疑問をまとめて解消できる。
- 江戸時代の文化・出版事情を知るヒントが得られ、当時の社会背景がクリアになる。
- 2025年大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』を100倍楽しむ豆知識を押さえられる。
- 「吉原細見」という江戸のガイドブックが持つ意外なエピソードがわかる。
ぜひ最後まで読んで、「江戸の天才と仕掛人」の化学反応を存分に堪能してほしい。
1. 平賀源内と蔦屋重三郎が注目される理由
なぜいま、平賀源内と蔦屋重三郎が注目を集めているのか。その理由の一つは、2025年放送予定のNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』だ。タイトルにもある「べらぼう」は、蔦屋重三郎が口癖のように発していたとされる言葉であり、その型破りな生き方を象徴しているといわれる。
- 蔦屋重三郎役: 横浜流星
- 平賀源内役: 安田顕
この豪華配役も手伝って、「平賀源内ってエレキテルの人でしょ? でも蔦屋重三郎って誰?」と興味をもった人は多いはずだ。実際、江戸時代の出版文化や遊郭文化に詳しくないと、蔦屋重三郎という人物は意外に知られていない。
だが、二人の人生をひもとくと「へえ、そんな仕事を一緒にしていたのか」「こんなところで関わっていたのか」と驚くことが多い。平賀源内と蔦屋重三郎は、一瞬の接点ではあるが、吉原の遊郭ガイドブック「吉原細見」をめぐって協力関係を築いた形跡がはっきり残っている。本記事では、その詳細を明らかにする。
2. 平賀源内とは何者か?──その多彩な才能と波乱の生涯
まずは、天才発明家にして奇想の人、平賀源内のプロフィールからおさらいしよう。時代劇や歴史好きでなくとも、「エレキテル」だけは聞いたことがある人が多いはずである。
2-1. 若き日の平賀源内と「エレキテル」のエピソード
- 生没年: 1728年(享保13年)〜1779年(安永8年)
- 出身地: 高松藩(現在の香川県高松市)
- 身分: 下級武士の家に生まれる
平賀源内は幼少期から非常に好奇心旺盛で、藩医や本草学者のもとで薬学や博物学を学んだ。高松藩主・松平頼恭が学問好きだったこともあり、源内は長崎に遊学するチャンスを得る。そこでは、オランダ語を中心とする外国の学問や最新の西洋技術(蘭学)に触れ、視野を一気に広げた。
エレキテルで人々を驚かす
帰藩後、27歳で藩を辞して江戸へ出た源内は、「物珍しいことを実現する発明家」として頭角を現す。最も有名なのは、「エレキテル(静電気発生装置)」を修繕し、実演してみせたエピソードである。もともと輸入品だった壊れた装置を見事に修理し、静電気をビリビリ体感できるようにした姿は“奇人変人”扱いされつつも、当時の江戸っ子たちの目を釘づけにした。
この「エレキテル」という言葉自体は、実はオランダ語由来であり、江戸時代には相当インパクトのあるプロモーションだったと言える。ちょっと現代でいえば、3Dプリンターをいきなり個人が組み立てて動かしてしまうような驚きかもしれない。
2-2. 本草学、蘭学、戯作……「元祖マルチクリエイター」の実像
平賀源内は、とにかく守備範囲が広い。専門家の域に達するものだけでも、以下のように数え上げきれないほどだ。
- 本草学(薬学・博物学): 植物・動物・鉱物の薬効研究
- 蘭学: オランダ語や西洋文化・技術の研究
- 鉱山開発: 実際に全国を回り、鉱脈を探し当てる
- 流行作家: 小説(戯作)、浄瑠璃、演劇脚本の執筆
- 画家: 自ら絵筆をとり、挿絵や絵画を描く
- 博覧会の開催: 薬品展を企画し成功に導く(日本初の博覧会とも言われる)
江戸の町で薬品展示会を複数回開催した実績は有名で、1762年(宝暦12年)の大規模展示は「日本初の博覧会」と呼ばれるほど画期的なイベントだった。その成果をまとめた『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』では、世界各地の薬草や動物、鉱物などの情報を詳細に載せた。
流行作家・平賀源内の代表作
- 『風流志道軒伝』: 「風来山人」という筆名で刊行。巨人国・小人国などに旅する空想譚。SF小説や冒険活劇の先駆けとも。
- 『根南志具佐(ねなしぐさ)』: 「天竺浪人」という別名義で出版。河童と女形の恋物語や閻魔大王の登場など、当時の芸能ニュースを風刺的に取り入れた作品。
これらの作品は、「男色」要素を絡めたり、河童が若侍に化けるなど、かなり型破りで遊び心満載。まさに“非常の人”という評価にぴったりだ。
2-3. 事件と獄死──52歳で迎えた衝撃的な最期
ところが、その非凡な才能と奔放な生き方が災いしたのか、平賀源内は1779年(安永8年)に殺傷事件を起こして投獄される。詳しくは、源内が口論から人を刺してしまったとされており、誤解や衝動が重なったといわれる。残念なことに、そのまま獄中で病死してしまったのだ。
当時52歳。もしも源内が長生きしていたら、もっと破天荒な発明や作品が生まれたかもしれない。友人である蘭学者の杉田玄白が「非常の人、非常に死す」と追悼したように、最期まで波乱に満ちた人生だった。
3. 蔦屋重三郎とは何者か?──江戸のメディア王の実像
一方で、蔦屋重三郎はどういう人物だったのか。こちらも改めてプロフィールを整理してみよう。
3-1. 若き書店主が吉原で頭角を現すまで
- 生没年: 1750年(寛延3年)〜1797年(寛政9年)
- 出身地: 江戸(現在の東京)生まれ
- 家業: 書肆(本屋)、版元、出版プロデューサー
蔦屋重三郎は江戸・日本橋あたりの生まれで、若くして吉原(幕府公認の遊郭)の門前に書店を構えた。当時、吉原は一大観光地であり、「吉原細見」という遊郭ガイドブックが需要を集めていた。蔦屋重三郎は「書店の小僧」的ポジションから始めて、徐々に出版事業に進出したといわれている。
“吉原細見”ビジネスに目をつける
その頃、吉原細見は複数の業者が出版していたが、どの本も中身はさほど差がなく、妓楼や遊女の情報を載せるだけのデータブックだった。そこに目をつけた蔦屋重三郎は、いかに差別化を図るかを探り、あとに平賀源内へ序文の依頼を持ちかけて話題性を高めようとする。
3-2. 浮世絵と黄表紙の隆盛──歌麿・写楽を世に送り出す
蔦屋重三郎は、書店経営のかたわらで多彩な才能を持つ人物を発掘する才能にも恵まれていた。特に有名なのは、「喜多川歌麿」や「東洲斎写楽」といった浮世絵師を大抜擢し、彼らの絵を世に広めたことである。
- 喜多川歌麿: 美人画で大成功
- 東洲斎写楽: 浮世絵界に彗星のごとく現れた謎の絵師
このほか、黄表紙(大衆小説や戯作のような娯楽本)の出版も手がけ、江戸の人々の娯楽に欠かせない存在となった。まさに「江戸のメディア王」と呼ぶにふさわしい活躍である。
3-3. 2025年大河ドラマの主人公として再注目
前述のとおり、蔦屋重三郎は2025年の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の主人公となる。演じるのは人気俳優の横浜流星氏。浮世絵の流行や戯作文化はもちろん、吉原遊郭をめぐる人間模様や、平賀源内や杉田玄白など多彩な交友関係も描かれるのではないかと期待されている。
4. 平賀源内と蔦屋重三郎の出会い──“吉原細見”が取り持つ縁
さて、いよいよ本題である。平賀源内と蔦屋重三郎は、いつ、どこで、どう関わったのか。結論から言えば、1774年(安永3年)頃に、蔦屋重三郎が関わった「吉原細見」の出版に際して、平賀源内に序文を書いてもらったケースがはっきりと確認できる。
4-1. 吉原細見とは?──遊郭ガイドブックの需要と競争
江戸時代、吉原は公認の遊郭でありながらも、庶民から武士まで幅広く集まる一大社交場だった。各遊女屋はしのぎを削り、人気遊女がいれば名前が売れるし、地図や値段表が充実していれば観光客にも喜ばれる。こうした需要に応えるのが「吉原細見」というガイドブックである。
吉原細見は年に何度か改訂され、その都度、版元や取次業者が違う版を出すこともあったが、どの本も基本的な構成は以下のようなものだ。
- 遊女屋・妓楼の所在地一覧
- 在籍遊女の名前と顔ぶれ
- 遊興費用の相場
- 吉原での遊び方のマナーや、行事・風俗紹介 など
4-2. “福内鬼外”による序文依頼の秘話
当時、蔦屋重三郎はまだ駆け出しの段階で、鱗形屋という老舗の書店の下で吉原細見の販売や編集の仕事を請け負っていた。そんな中、「吉原細見」をもっと面白くして、多くの人に手に取ってもらおうと考えたのだろう。そこで思いついたのが、有名人・平賀源内の起用だった。
ところが、源内は江戸でも名の知れた“男色家”として知られていた。もちろん、源内だって女性と関わりがなかったわけではないが、「女遊び」に興味が薄いというイメージが強かった。そこで、あえて吉原遊女論を源内に書かせたら面白いのではないか。そんな洒落っ気と話題づくりがあったと推測される。
序文の筆名は“福内鬼外”
平賀源内は複数の筆名を使っていた。たとえば「風来山人」「天竺浪人」「福内鬼外」など。今回の「吉原細見」の序文では「福内鬼外」が使われている。これは浄瑠璃などを発表するときにも用いたペンネームである。
4-3. “男色家”源内が語った遊女論──世間をあっと言わせた衝撃
実際に源内が序文で書いたのは、「吉原で働く遊女を女衒はどのように評価するか」といった、やや生々しいテーマだ。容姿のチェックポイントを並べ、鼻筋や歯並び、髪の生え際、尻の形まで言及しながら、「遊女というのはなかなか大変で、優れた女郎は滅多にいない」と評している。
世間が驚いたのは、「男色家」イメージの強い源内が“遊女”について言及したことだ。江戸っ子は面白がって「源内先生がそんな話を書くなんて!」と飛びついた。まさに蔦屋重三郎の狙いどおり、付加価値が生まれて吉原細見はよく売れたという。
5. 二人が与えた影響とその後──もし長生きしていれば…?
1774年に出版された吉原細見の序文から、二人の仕事上の接点は確認できる。それでは、その後、平賀源内と蔦屋重三郎はどこまで協力関係を深めたのか。
5-1. 蔦屋重三郎の手腕が作り出した“話題の人”平賀源内
先述のとおり、蔦屋重三郎は「ブランディング」「プロモーション」の才能に長けていた。「話題になる企画を通じて人を驚かせ、商機をつかむ」という手法は、のちに「東洲斎写楽」を世に出すときにも見られる。無名の絵師を突然大々的に宣伝した手口は、まさに今回の“平賀源内起用”の応用と見ることができる。
もっとも、当時すでに平賀源内は有名だったため「無名を売り出す」わけではなかったが、「源内にそんなことをさせるのか!」というギャップで驚かせる効果が大きかった。
5-2. 平賀源内の死後、蔦屋重三郎はどう動いたか
不幸なことに、蔦屋重三郎が出版事業で大きく台頭していくのは1770年代後半以降である。一方の平賀源内は1779年末に事件を起こし、1780年初頭に獄死している。二人がさらに深いコラボをするタイミングは、ほぼ失われてしまったのだ。
もし平賀源内があの事件を起こさずに長生きしていれば、蔦屋重三郎とタッグを組み、もっと奇抜な出版物やイベントを仕掛けたかもしれない。そう考えると、江戸文化史における“幻の大コラボ”を想像してしまうところだ。
5-3. 江戸文化における“奇才”と“仕掛人”の功績
- 平賀源内: その多彩な活動は、のちの日本文化・科学に多大な影響を与え、「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と称されることもある。
- 蔦屋重三郎: 独自の企画力と宣伝力で、浮世絵や戯作を大ヒットさせた“江戸のメディア王”。
二人の直接的な接点は限られているものの、江戸中期という同じ時代のなかで、それぞれが新たなカルチャーやビジネスモデルを開花させた点は共通している。そして、その一つの交差点が「吉原細見の序文依頼」だったわけだ。
6. まとめ──平賀源内と蔦屋重三郎の“べらぼう”な魅力
ここまで、平賀源内と蔦屋重三郎について順を追って解説してきた。大きなポイントを振り返ってみよう。
- 平賀源内は、エレキテルで名を馳せた発明家であり、本草学者・戯作者・画家など多方面で活躍する“元祖マルチクリエイター”だった。
- 蔦屋重三郎は、吉原の書店からスタートし、出版事業を拡大。歌麿や写楽といった天才を世に送り出した“江戸のメディア王”だった。
- 二人の直接的な仕事上の接点は、1774年頃に出された「吉原細見」への序文依頼。平賀源内は“福内鬼外”名義で遊女論を執筆し、世間を驚かせた。
- 源内は1779年に殺傷事件で投獄され、1780年に獄中死。一方の蔦屋重三郎は1780年代以降に出版界で名を挙げていくため、二人のさらなるコラボは叶わなかった。
- もしも源内が健在であれば、蔦屋重三郎のプロデュース力と組み合わさり、さらに面白い企画や名作が生まれたかもしれない。
2025年の大河ドラマで、彼らの関係がどのように描かれるかは楽しみなところだ。とはいえ、史実としては「吉原細見」の序文以外、はっきりした共同プロジェクトは確認されていない。ドラマがフィクションでどこまで肉付けされるかも注目のポイントである。
いずれにせよ、平賀源内と蔦屋重三郎の関係は、江戸時代の斬新な文化と仕掛けの一端を垣間見せてくれる。彼らが残した「べらぼう」な実績は、現代の私たちが学ぶところも多いはずだ。