天慶年間に起きた藤原純友の乱は、瀬戸内海から九州へ広がった海上反乱である。939年末から941年にかけて展開し、朝廷を揺さぶった。
舞台になった瀬戸内は、都と西国を結ぶ物流の大動脈だ。船の往来が乱れれば税も物資も滞り、暮らしと政治の両方に響く。
純友は海賊と結びつき、国府や港を襲い、ついには大宰府にまで迫ったと伝わる。大規模な船団戦も起こり、被害は広域に及んだ。
一方で史料は朝廷側の視点が強く、出来事の細部には揺れがある。確かな点と不確かな点を分けつつ、筋道を押さえるのが理解の近道だ。
瀬戸内海と藤原純友の乱の背景
瀬戸内海が要衝だった理由
瀬戸内海は、畿内と西国を結ぶ最短の海上回廊だ。潮流が比較的穏やかで、島影を伝って航行できる。
山陽・南海の沿岸には港が点在し、米や塩、布、木材などの物資が集まる。税として運ばれる官物も海路に依存した。
海の通行を握る者は、関所を押さえるのに等しい。船を止めれば物流が滞り、価格も治安も揺れる。
この水路は外海にもつながる。九州へ抜ける道は関門海峡方面へも通じ、広域の動きが連動する。
だから瀬戸内の治安悪化は地方問題にとどまらない。国家運営の土台を直接揺らす性質を持っていた。
海賊増加と地方社会のゆらぎ
純友の乱の前後、瀬戸内では海賊の横行が目立ったとされる。船団がまとまれば、積荷や税を狙う力になる。
背景には地方統治のゆらぎがある。国司の交代、徴税の負担、災害や不作が重なれば不満が高まりやすい。
港町では、航海者・商人・漁民が混在し、利害も複雑だ。富が集まる一方で、格差や争いも生まれる。
そうした中で武装勢力が「用心棒」にも「脅威」にもなり得た。境目が曖昧なほど、秩序は崩れやすい。
純友の乱は、その曖昧さが一気に噴き出した事件として理解できる。賊の増加は、社会の綻びの表れでもあった。
藤原純友の出自と地方官としての立場
純友は藤原氏の一族とされ、中央の名門に連なる人物だ。それでも行動の主戦場は都ではなく西国だった。
地方官として任地に下り、現地の状況に深く関わったと考えられる。役目は治安維持にも及ぶため、海賊対策と無縁ではない。
伝わるところでは純友は伊予国に関係し、周辺の海上勢力と結びついた。根拠地を日振島とする説もあり、島嶼部が拠点になり得た。日振島
承平6年(936)ごろ、伊予守の紀淑人が宥和策を取ったとされ、純友が反乱に転じるまでには曲折があった。
地方官でありながら、在地の武装勢力と結びつく。その構図が、乱を単純な「外部の賊」では語り切れなくしている。
追捕と懐柔から蜂起へ転じた背景
朝廷は海賊を討つだけでなく、時に取り込みも図った。位階を与えるなどして秩序の側へ引き寄せる発想だ。
しかし現地では、海賊と交易、漁労と略奪が連続しやすい。取り締まりは反発を呼び、協力は利得を生む。
純友が何を不満としたかは、史料だけでは断定しにくい。だが利害対立が積み上がり、武力に傾いた可能性はある。
さらに同時期、東国では別の反乱が進行していた。中央の余力が分散し、抑えが利きにくい空気も想像できる。
追捕と懐柔が揺れた末、純友は蜂起へ踏み出したと語られる。社会の綻びと政治判断の迷いが交差した局面だ。
伝承と史料の距離感
純友の乱は、史書・説話・地方伝承に広く残る。その分、語りは多彩で、細部は一致しないことがある。
たとえば「海賊の頭領」「地方官」「逆賊」といった像は、語る立場で変わる。後世の価値観も混ざりやすい。
史料の主軸は朝廷側で、討伐の正当性が強調されがちだ。反乱側の動機や内部事情は見えにくい。
そこで重要なのは、確かな骨格を押さえることだ。時期、主戦場、主な襲撃地点、鎮圧までの流れは大筋で共有される。
骨格を押さえた上で、細部は「伝わる」「とされる」と距離を取って扱う。これが誤解を減らす読み方になる。
藤原純友の乱の経過を時系列で追う
須岐駅襲撃から拡大した初動
乱の発端として語られるのが、天慶2年(939)12月の須岐駅襲撃だ。駅は公用の交通拠点であり、象徴的な標的だった。
須岐駅が置かれたのは摂津国とされ、都に近い圏内で事件が起きた衝撃が大きい。単なる遠国の騒ぎではない。
この襲撃では藤原貞固が捕らえられたとも伝わる。初動から「人質」や「威圧」が使われている点が重い。
海賊行為が続いていた中で、純友は急速に勢力をまとめたとみられる。賊船が千余艘に及んだという表現もある。
初動の意味は、国家の交通制度を狙ったところにある。海と陸の結節点を叩くことで、支配の神経を麻痺させようとした。
国府襲撃と兵器・官物の奪取
須岐駅襲撃の後、純友勢は淡路島・讃岐国など、瀬戸内の要地へ動いたと伝わる。島と沿岸の港が連動した形だ。
国府が襲われたという記述もあり、標的は行政の中枢へ向かう。国司の館や倉は、税と武器の集積地でもある。
叛乱側は矢や弓を得て武装を強めたとされる。さらに官物を奪えば、兵の維持と船の運用が可能になる。
乱は略奪に見えて、実は兵站の確保でもある。港を押さえ、倉を奪い、武器を揃える流れが一貫している。
こうした動きが広がるほど、地方の不安は増す。交易の停滞は生活に直結し、協力する者と抗う者の分断も深まる。
国司や港湾施設への打撃
純友勢の行動で目立つのは、国司の拠点と港湾施設が狙われた点だ。行政と物流の双方を叩く戦い方である。
天慶3年(940)には周防国の鋳銭司が焼かれたとする記述がある。貨幣鋳造に関わる施設が狙われたのは象徴的だ。
また海賊は「賊の關」と呼ばれる海上関所を設けたとされる。通行を支配する発想は、経済的な支配そのものに近い。
被害は国府だけでなく、倉、船、港の労働力にも及ぶ。船を失えば輸送が止まり、税の徴収も滞る。
だから朝廷は、単なる治安事件として扱えなくなる。国の財政と権威を守る戦いへ性格が変わっていった。
朝廷の討伐体制と小野好古の派遣
朝廷は純友追捕のため、追捕使を任じて軍事の指揮系統を整えた。中心に立ったのが小野好古で、のちに山陽・南海の凶賊追捕を統括する立場に置かれたと伝わる。地方の軍事力をまとめる役割が期待された。
討伐軍は海上戦に備え、船と水夫を確保する必要があった。播磨国や讃岐など造船に適した国に命じ、沿岸の国々から兵と船を集める。陸の軍勢だけでは追いつけないため、海の機動力そのものを国家が組み立て直した形だ。
一方で朝廷は懐柔策も捨てきれず、純友に位階を与えたとされる。将門の乱が続いていた時期は、東西同時の戦線を避けたい事情もあった。だが海上での被害が続くと、討伐へと傾かざるを得ない。
追う側にとって難しいのは情報だ。海上勢力は港の住民や航海者から動きをつかみやすく、朝廷側の準備も漏れやすい。反対に朝廷軍は、現地の案内や補給がなければ長期行動ができない。だから寝返りや裏切りが勝敗を左右しうる。
討伐は小野好古らの追捕軍に加え、藤原忠文の征西大将軍任命など、体制の増強が重ねられたと伝えられる。決め手になったのは陸海からの包囲と、海上勢力内部の分裂だったとされる。大規模な反乱でも連携が崩れれば一気に瓦解する。
大宰府襲撃と博多津の決戦
天慶4年(941)春、純友勢は北部九州の政治拠点である大宰府を襲ったと伝えられる。大宰府は西国の行政・軍事の中心で、対外窓口の役割も担った。ここが攻められたことは朝廷に大きな衝撃を与えた。(大宰府市公式サイト)
大宰府では守備軍が撃破され、府内に放火したという記述もある。都から遠い九州でも、国家の権威を示す拠点が焼かれたとなれば、心理的な打撃は大きい。反乱が単なる略奪ではなく政治的事件として扱われる理由になる。
海上勢力は九州の港を押さえれば、瀬戸内と外海を結ぶ道も左右できる。さらに周辺の国府や港を脅せば、補給と兵員の確保もしやすい。純友勢が西へ向かったのは、勢力の再編と反転攻勢を狙った動きとも考えられる。
朝廷は急ぎ討伐軍を集結させ、博多湾周辺で決戦となった。小野好古の追捕軍が陸海から迫り、船団戦で純友勢は大敗したとされる。博多津の戦いとして語られる場面で、日付を五月二十日とする史料もある。
史料には船を多数失い、船八百余艘を奪われたといった表現も見える。海戦では船を失うことが致命傷で、兵が残っても移動も補給もできなくなる。港を失えば新たな船も作れず、連合は急速に解体する。
敗れた純友は小舟で伊予へ逃れたという。大宰府襲撃は反乱の頂点であり、同時に転落点でもあった。
藤原純友の最期と残党の処理
博多津で敗れた純友は、船団を失って小舟で伊予へ逃れたとされる。追う側は海上の封鎖と沿岸警固を強め、港の出入りを監視して逃走先を絞り込んだ。海戦の敗北は、逃げ道そのものを狭める。
純友は天慶4年(941)6月20日に、伊予の警固にあたっていた橘遠保に討たれたと伝わる。首を朝廷へ送る行為は、反乱の鎮圧を可視化し、各地の動揺を抑える政治的意味を持った。
ただ、首謀者の死で直ちに平穏に戻るわけではない。船団を失った残党は各地へ散り、略奪や抵抗が続く恐れがある。海上の治安回復には地道な追捕と、港を押さえる常設の警固が欠かせない。
史料には9月から10月にかけて残党が捕殺されたとする記述があり、鎮圧には時間がかかった。純友の一族や関係者とみなされた者の処罰も行われ、見せしめの側面もあった。反乱を再燃させないための強い圧力である。
この過程で地方の警固役や在地勢力が朝廷の側で動いたことも見える。中央の命令だけで海を制するのは難しく、現地の船と人をどう組み込むかが鍵になった。純友の乱は、中央と地方の軍事協力が不可欠になっていく転換点としても読める。
鎮圧後、航路は徐々に回復するが、海上の治安問題が消えたわけではない。だからこそ、後の時代に海賊対策や警固の制度が重ねて整えられていく。乱は短期の事件でありながら、長い課題を突きつけた。
藤原純友の乱が残した影響と評価
承平・天慶の乱としての位置づけ
純友の乱は平将門の乱と近い時期に起きたため、「承平・天慶の乱」と並称される。年号を冠する呼び名は、事件の規模だけでなく、朝廷が感じた危機の深さを表す。二つの反乱が同時進行したという事実が重い。
将門が東国で官職秩序に挑んだのに対し、純友は海上交通を断つことで国家運営を揺さぶった。陸と海で形は違うが、地方で武装勢力が自立し始めた点は共通する。都の命令が遠国で徹底しない現実が露わになった。
朝廷は二つの反乱を同時に受け、軍事動員だけでなく、情報収集や祈りの儀礼も総動員した。兵を集めるには時間がかかり、噂が先に広がる。危機管理の難しさを、国家全体が体験した時期でもある。
将門は天慶3年(940)に討たれ、純友は天慶4年(941)に討たれたと伝わる。連続した鎮圧は朝廷の威信回復につながったが、裏を返せば、地方がここまで膨らむまで抑えられなかったとも言える。
鎮圧後も地方統治の根本問題は残った。国司の任期、徴税の負担、警固の費用といった構造はすぐに変わらない。制度の隙間に武装勢力が入り込みやすい状況は、以後の歴史の伏線になる。
承平・天慶の乱という枠で見ると、純友の乱は「海の側」から中央集権の弱点を突いた事件として際立つ。海を抑えることが政治そのものだと示した点が、のちの時代にも響いた。
海上治安と税の輸送体制への影響
純友の乱で浮き彫りになったのは、税と物資の輸送が海上治安に強く依存していたことだ。港の倉が焼かれれば、都へ送る官物も消え、地方の財政も立ちゆかなくなる。
朝廷は追捕使の設置や各国への造船命令、沿岸警固の強化で対応した。これらは平時の行政ではなく、軍事を前提にした再編である。海の治安を国家が直接扱う意識が高まった。
結果として、海の守りは一部の官人だけでは担えず、現地の武装勢力や船団を制度の中へ組み込む方向へ向かう。守る側にも恩賞や利得が生まれ、警固は仕事として定着していく。
一方で取り締まりが強まるほど、沿岸の生活は窮屈にもなる。漁場や航路の支配、通行の規制は新たな摩擦を生み、守る側と守られる側の境界も曖昧になりやすい。
警固が制度化すると、海上の武力が一定程度公認される。後の水軍や武士の萌芽として語られることもあるが、当時はまだ固定した身分ではなく、役割と利害の集合体だった。
乱の直接の影響は数年でも、海上治安を国家課題として意識させた点は長く残った。瀬戸内を守る仕組みは、港の警固、情報の共有、船の確保など多方面に及び、以後も試行錯誤が続く。
武装した在地勢力の伸長
純友の乱は、在地で武装集団が形成されていた現実を示す。海賊と呼ばれても、背景には村落や港の共同体があり、武力は生活を守る手段でもあった。海上交通を握る者は、平時から一定の強さを持つ。
討伐側もまた地方の武力に頼った。小野好古らが動員した兵は、国司の組織だけでは足りず、在地豪族の郎党や武装した船乗りが加わったとみられる。敵も味方も、地方の実力者を無視できない状況だった。
こうした動員は、中央が地方の武力を把握し、賞罰で統制する方向を促した。武装した人々が公の命令で動く経験を積むことで、軍事が社会の中に根を下ろす。恩賞や官職が、武力と政治を結びつける媒介になる。
一方で武力が公認されれば、地方の発言力も増す。都から見れば統治の補助だが、地方から見れば交渉材料でもある。治安維持の担い手が自立しすぎれば、再び反乱の芽にもなりうる。
純友の乱の後、ただちに武士の時代が来るわけではない。それでも海の武装勢力と陸の武装勢力が政治の前面に現れた点で、節目として語られる。
九州・瀬戸内の地域史に残る痕跡
大宰府襲撃の記憶は、九州の史跡や伝承に影を落とす。太宰府周辺では兵乱の記述が残り、海からの脅威が意識された時代を思わせる。西国の政治拠点が焼かれたという衝撃は、地域の歴史意識にも残った。
瀬戸内でも日振島や沿岸の港に、純友の根拠地とする話が伝わる。史実と伝承は混じるが、海上勢力が地域社会に深く入り込んでいたことを示す。島や入り江の地形は、隠れ家にも補給地にもなり得た。
発掘や遺物から純友の乱を直接断定するのは難しい。だが港町の防御意識の変化や、倉の焼失を思わせる痕跡が語られることがあり、地域の歴史研究を刺激してきた。文献史料と考古資料をどうつなぐかが課題になる。
純友に討伐された側、討伐した側の両方が、後世の物語に取り込まれた。海賊、英雄、逆賊など像が揺れ、地域ごとに語り口が違う。語りの差は、その土地が何を誇り、何を恐れたかを映す鏡でもある。
地域史の視点を入れると、乱は単に都の出来事ではなく、港の暮らしと結びついた事件として立ち上がる。地図の上で瀬戸内から九州への線をたどると、動きの必然も見えてくる。
純友像の変化と現代の見方
純友は古い史書では逆賊として描かれやすい。官物を奪い、国府を焼き、大宰府を襲ったという筋立ては、国家秩序に対する挑戦として理解された。逆賊像は、朝廷の正統性を守る語りでもあった。
一方で純友が地方官として現地に根を張っていた点を重視すると、単なる外部の賊とは違う姿が見える。取り締まりと反乱が隣り合うのは、制度と現実のズレが大きかったからだ。統治の担い手が、そのまま反乱の核になる危うさがある。
海賊という言葉も現代のイメージと同じではない。略奪だけでなく、輸送や漁労、港の管理を担う集団が、政治状況で「賊」と呼ばれた可能性がある。海の仕事は境界が曖昧で、合法と非合法が連続する。
現代の研究では、乱を社会経済の変化、在地勢力の伸長、交通路支配の争いとして捉える傾向が強い。善悪の物語より、構造を見ることで理解が進む。地名や航路、物資の動きを合わせて考えると立体的になる。
純友像が揺れること自体が、史料の限界と歴史の多面性を教える。瀬戸内の海が持つ力と危うさを象徴する人物として、今も語られ続ける。
まとめ
- 藤原純友の乱は939年末から941年にかけて瀬戸内から九州へ広がった海上反乱である。
- 瀬戸内海は税と物資の大動脈で、治安悪化は都の経済と政治を直撃した。
- 海賊の増加には課税や統治の弱さなど地方社会のゆらぎが関わった。
- 純友は藤原氏の一族で地方官経験を持ち、在地の海上勢力と結びついたとされる。
- 須岐駅襲撃を機に被害が拡大し、国府や港が狙われたと伝わる。
- 周防の鋳銭司焼討ちなど国家事業の拠点が標的になったという記述もある。
- 朝廷は追捕使を任じ、小野好古や藤原忠文らのもとで討伐体制を強化した。
- 大宰府襲撃は反乱の頂点で、博多津の海戦で純友勢は大敗したとされる。
- 純友は伊予で討たれ、残党処理まで含め鎮圧には数か月を要した。
- 乱は海上警固の再編と在地武装勢力の台頭を意識させ、後世の治安政策へ影響した。



