卑弥呼

古代史における最大のミステリーといえば、邪馬台国の女王である卑弥呼の存在とその墓の場所だ。中国の歴史書である『魏志倭人伝』には、彼女が死去した際に巨大な墓が作られたと記されている。

しかし、その正確な位置は今なお特定されておらず、考古学者や歴史ファンの間で熱い議論が交わされている状況だ。有力な候補地はいくつか存在するが、決定的な証拠が見つかっていないため、さまざまな説が並立している。

本稿では、現在の研究で最も有力視されている奈良県の箸墓古墳をはじめ、九州説における候補地や、文献に残された墓の特徴について詳しく見ていく。

卑弥呼の墓の謎を解き明かすことは、日本の国家形成の過程を知ることにもつながる。数千年の時を超えて語り継がれる女王の眠る場所について、その可能性と根拠を整理していこう。

卑弥呼の墓とされる箸墓古墳の有力な根拠

箸墓古墳の大きさと築造時期の一致

奈良県桜井市にある箸墓古墳は、卑弥呼の墓である可能性が極めて高いと考えられている。その最大の理由は、古墳の規模と築造時期が文献の記述や歴史的背景と見事に合致している点にある。

『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓について「径百余歩」という記述がある。これは当時の尺度で計算すると直径約145メートル前後と推定される。箸墓古墳の後円部分の直径は約160メートルであり、この記述と非常に近い規模を持っているのだ。

また、近年の放射性炭素年代測定による研究成果も、この説を後押ししている。箸墓古墳の周辺から出土した土器に付着した炭化物を分析した結果、この古墳が築造されたのは西暦240年から260年の間である可能性が高いと判明した。

卑弥呼が死去したのは西暦248年頃とされているため、時期的に矛盾がない。3世紀中頃にこれほど巨大な前方後円墳を築くことができた権力者は、当時の日本列島において卑弥呼以外に考えにくいという見方が強まっている。

魏の鏡や周辺出土品が示す権威

箸墓古墳が卑弥呼の墓であるという説を補強する材料として、周辺地域からの出土品の存在も無視できない。箸墓古墳そのものの内部発掘は行われていないが、同時代の大和地域の古墳からは、当時の権威を象徴する遺物が数多く見つかっている。

特に注目されるのは、中国の魏から贈られたとされる銅鏡との関連性だ。卑弥呼は魏の皇帝から「親魏倭王」の称号とともに、銅鏡百枚を与えられたと記録されている。大和地域の前期古墳からは、魏の年号が入った鏡や、それと同型の三角縁神獣鏡が大量に出土している。

これは、この地域に魏と直接的な外交を行えるほどの強力な政治権力が存在したことを示している。九州などの他地域と比べても、大和地域における鏡の出土数は圧倒的であり、邪馬台国の中心地がここにあったとする説の有力な根拠となっている。

また、箸墓古墳の墳丘からは特殊な器台や土器なども採集されており、これらは祭祀に使われたものと考えられている。宗教的指導者でもあった卑弥呼の埋葬にふさわしい、大規模な葬送儀礼が行われた痕跡と言えるだろう。

宮内庁による陵墓指定と発掘の壁

箸墓古墳が卑弥呼の墓であると断定できない大きな理由の一つに、発掘調査の難しさがある。現在、箸墓古墳は宮内庁によって「大市墓」として管理されており、第7代孝霊天皇の皇女である倭あとと日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓に指定されているからだ。

宮内庁が管理する陵墓は、皇室の祖先を祀る静安と尊厳の場であるため、原則として学術的な発掘調査が認められていない。研究者が立ち入れるのはごく限られた範囲にとどまり、墳丘の内部や埋葬施設の詳細な調査は行われていないのが現状だ。

もし本格的な発掘が許可され、内部から魏の年号が刻まれた鏡や、卑弥呼の時代に特有の遺物、あるいは親魏倭王の金印などが発見されれば、論争には終止符が打たれるだろう。

しかし、現状では外形的な特徴や周辺の出土物から推測することしかできない。この「掘りたくても掘れない」という状況が、卑弥呼の墓の特定を難しくし、同時に歴史ロマンを掻き立てる要因ともなっているのである。

纒向遺跡との密接な関係性

箸墓古墳を語る上で欠かせないのが、その足元に広がる纒向(まきむく)遺跡の存在だ。奈良県桜井市に位置するこの遺跡は、3世紀初頭から4世紀初頭にかけて栄えた巨大な都市遺跡であり、初期ヤマト政権発祥の地とも目されている。

纒向遺跡からは、日本各地の土器が大量に出土している。これは、当時の日本列島の広い範囲から人々が集まり、交流していたことを意味する。九州から関東に至るまでの土器が見つかっており、ここが政治・経済の中心地、つまり首都のような機能を持っていたことは間違いない。

箸墓古墳は、この纒向遺跡の最盛期が終わる頃、あるいはその最中に築造された。巨大な都市機能を持った集落のすぐそばに、突如として出現した巨大な墓という構図は、邪馬台国の都と卑弥呼の墓の関係として非常に整合性が高い。

また、纒向遺跡では大型の建物跡も見つかっており、これが卑弥呼の居館だったのではないかという説もある。都市と墓がセットで存在することは、ここが邪馬台国であったとする説を支える強力な証拠の一つとなっている。

九州説における卑弥呼の墓の候補地と課題

吉野ヶ里遺跡と卑弥呼の墓の関連

邪馬台国九州説において、長らく注目されてきたのが佐賀県の吉野ヶ里遺跡だ。弥生時代最大級の環濠集落であり、物見櫓や厳重な防御施設を持つその姿は、『魏志倭人伝』に描かれた邪馬台国の様子を彷彿とさせる。

吉野ヶ里遺跡には、歴代の王たちが埋葬されたと考えられる「北墳丘墓」が存在する。この墓は非常に丁寧に作られており、甕棺からは銅剣やガラス玉などの副葬品が見つかっている。この地域が強大な権力を持っていたことは疑いようがない。

しかし、卑弥呼の墓として見た場合、いくつかの課題が残る。まず、北墳丘墓の築造時期が卑弥呼の没年よりも古いとされる点だ。また、墳丘の規模も『魏志倭人伝』にある「径百余歩」には遠く及ばない。

近年、「謎のエリア」と呼ばれる場所の発掘が進み、新たな石棺墓が見つかったことで再び注目を集めたが、決定的な証拠は出ていない。吉野ヶ里は邪馬台国の有力な連合国の一つ、あるいはその時代の重要な拠点であったことは間違いないが、卑弥呼その人の墓であるとは断定しにくい状況だ。

平原遺跡と大量の銅鏡の発見

福岡県糸島市にある平原(ひらばる)遺跡も、卑弥呼の墓の候補地として名前が挙がることがある。この遺跡にある平原王墓からは、日本最多となる40面もの銅鏡が出土していることが最大の特徴だ。

その中には、直径46.5センチメートルという日本最大の「内行花文鏡」が含まれている。これほど巨大で立派な鏡を副葬できる人物は、ただの豪族ではなく、王クラスの女性であったと考えられている。実際、埋葬されていたのは女性である可能性が高いとされている。

卑弥呼が魏から銅鏡百枚を贈られたという記録を考えると、これほど多くの鏡が出土した平原遺跡は魅力的な候補地に見える。伊都国(現在の糸島市付近)は『魏志倭人伝』にも登場する重要な国であり、邪馬台国との関係も深い。

しかし、平原王墓は「方周溝墓」と呼ばれる形式で、円形の巨大な墳丘を持つという記述とは異なる。また、規模も比較的小さいため、「径百余歩」という条件には合致しない。あくまで伊都国の女王の墓であるという見方が一般的だが、邪馬台国との関連を示唆する重要な遺跡であることに変わりはない。

祇園山古墳と宇佐神宮の伝承

大分県宇佐市にある祇園山古墳も、九州説の中では候補の一つとして挙げられることがある。この古墳は、自然の地形を利用した特異な形状をしており、前方後円墳の初期の形態ではないかという意見もある。

宇佐神宮の近くに位置している点も注目される理由だ。宇佐神宮は全国の八幡宮の総本社であり、古代から重要な祭祀の場であった。神功皇后や卑弥呼と結びつけて考える伝承も古くから存在し、宗教的な中心地としての性格が邪馬台国と重なると考える人もいる。

しかし、古墳の規模については議論がある。全長は約45メートル程度であり、『魏志倭人伝』の「径百余歩(約145メートル)」とは大きな開きがある。一部には、地形全体を墓域とみなす解釈もあるが、考古学的な通説とはなっていない。

また、築造時期の特定も難しく、出土品も卑弥呼の時代を決定づけるものは見つかっていない。地理的にも、九州説の主流である筑後川流域や博多湾岸からは距離があり、邪馬台国の中心地としては位置づけが難しいという課題も残されている。

九州説における墓の規模の不一致

九州説全体に共通する最大の弱点は、卑弥呼の墓とされる「径百余歩」に匹敵する同時代の墳墓が、九州内では見つかっていないことだ。

『魏志倭人伝』の記述を信頼するならば、卑弥呼の墓は当時としては破格の大きさであったはずだ。奈良の箸墓古墳はその条件を満たしているが、九州の遺跡でその規模を持つものは、卑弥呼の時代よりも後の時代に作られたものばかりである。

この矛盾を解消するために、九州説の支持者からは「径百余歩というのは誇張表現である」あるいは「墓の定義が異なる」といった解釈も提示されている。しかし、記述を文字通り受け取るならば、九州には該当する墓が存在しないことになる。

この点が、考古学的な観点から畿内説(奈良説)が優勢とされる大きな理由となっている。九州に強大な勢力があったことは事実だが、卑弥呼の墓そのものを九州に見出すには、既存の遺跡とは異なる新たな大発見が必要となるだろう。

魏志倭人伝が記す卑弥呼の墓の姿と殉葬

径百余歩という記述の意味

『魏志倭人伝』には、卑弥呼が死んだ後の様子として「大いに冢を作る。径百余歩」と書かれている。この「径百余歩」という大きさが、墓を特定する上で最も重要な手がかりとなっている。

中国の魏の時代において、1歩は当時の尺度でおよそ145センチメートル程度、あるいは短里説などを考慮しても、百余歩は直径約150メートル前後の規模を指すと解釈されるのが一般的だ。

この規模は、弥生時代の一般的な王の墓と比べると桁違いに大きい。それまでの墓は大きくても数十メートル程度であり、卑弥呼の墓がいかに特別で巨大な国家プロジェクトであったかがうかがえる。

この記述は、単に墓が大きいということだけでなく、当時の倭国において、それだけの労働力を動員できる強力な中央集権的なシステムが生まれつつあったことを示唆している。この規模に合致するのは、現時点では奈良盆地の箸墓古墳をおいて他にないというのが、多くの研究者の見解である。

殉葬された百余人の奴婢たち

『魏志倭人伝』には、墓の大きさに続いて「殉葬者奴婢百余人」という衝撃的な記述がある。これは、卑弥呼の死に際して、100人以上の奴隷や召使いが道連れとして埋葬されたことを意味する。

殉葬は、古代中国や周辺諸国でも見られた風習であり、主君があの世でも不自由なく暮らせるようにという意味が込められていた。日本において実際に大規模な殉葬が行われた痕跡は少ないが、この記述は卑弥呼の権力が絶対的であったことを物語っている。

しかし、実際に箸墓古墳やその他の候補地から、100人分の人骨が一箇所から見つかったという報告はない。これについては、実際に殺して埋めたのではなく、土人形などで代用した可能性や、墓の周辺に別の形で埋葬された可能性も考えられる。

あるいは、まだ発掘されていない部分に眠っているのかもしれない。いずれにせよ、この「百余人」という数字は、卑弥呼という存在の特異性と、当時の葬送儀礼の厳しさを伝える重要な記録である。

弥生時代の墓から古墳への転換点

卑弥呼の墓が作られた時期は、日本の歴史において弥生時代から古墳時代へと移り変わる転換期にあたる。卑弥呼の墓の形状や規模は、まさにその時代の変化を象徴していると考えられている。

弥生時代の墓は、地域ごとに形が異なり、四隅突出型墳丘墓や円形周溝墓など多様であった。しかし、卑弥呼の死後、あるいはその直前頃から、前方後円墳という定型化された巨大な墓が近畿地方を中心に広まり始める。

箸墓古墳は、最古級の定型化された前方後円墳とされている。もしこれが卑弥呼の墓であるなら、彼女の死をきっかけに、ヤマト政権を中心とした新しい政治体制が確立され、その象徴として前方後円墳という共通の墓制が採用されたというシナリオが描ける。

つまり、卑弥呼の墓は単なる一人の女王の墓ではなく、日本列島が緩やかな連合体から、統一された国家へと歩み出す出発点を示すモニュメントとしての役割を果たしていた可能性があるのだ。

棺に関する記述がない謎

『魏志倭人伝』には墓の大きさや殉葬者の数は詳しく書かれている一方で、肝心の「棺」に関する記述がないという不思議な点がある。通常、王の埋葬であれば棺や郭(棺を納める部屋)についての言及があってもおかしくない。

これより少し前の記述には、「棺あって郭なし」という倭人の一般的な埋葬習慣についての言及はあるが、卑弥呼個人の棺については触れられていないのだ。これは、中国の使節が実際に墓の建設現場や埋葬の瞬間を見ていなかった可能性を示唆しているとも言われる。

あるいは、あまりにも神聖な儀式であったため、外部の人間には詳細が伏せられたのかもしれない。もし卑弥呼の墓が発掘されれば、どのような棺が使われているかも大きな注目点となる。

当時の最高級の棺であれば、木棺の周りを石で囲ったり、水銀朱で満たされたりしている可能性がある。文献に書かれていない「空白」の部分こそが、考古学的な発掘によって明らかになることが期待される最大のミステリーなのである。

まとめ

卑弥呼の墓をめぐる議論は、日本の古代史において最も興味深いテーマの一つだ。現在の研究では、規模や築造時期、出土品の特徴から、奈良県の箸墓古墳が最有力候補とされている。特に『魏志倭人伝』にある「径百余歩」という記述と箸墓古墳の大きさが一致する点は、偶然の一致として片付けるにはあまりにも説得力がある。

一方で、九州説にも吉野ヶ里遺跡や平原遺跡といった重要な拠点は存在するが、墓の規模という点では決定的な証拠に欠けるのが現状だ。しかし、これらは邪馬台国連合の一部であった可能性が高く、歴史的価値は極めて高い。

卑弥呼の墓が特定されれば、邪馬台国の所在地論争にも決着がつき、日本の国家の成り立ちがより明確になるだろう。今後、発掘技術の進歩や新たな発見によって、長年の謎が解明される日が来ることが期待される。